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山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 ここ4ヶ月、山歩きに出掛ける機会が無く、久しぶりに今まで何度となく登ったことのある大月駅に近い岩殿山に出かけました。登山口まで40分で行き、ゆっくりと急な階段を登りますが息切れで足が進まず、今まで経験のない鈍足です。平日でしたが登山口を11:00から登り始め、年配の登山者が皆私を追い越して行きますが、若い女性の登山者もいました。登山者でなく歴女であったのかもしれません。
地図にある標準所要時間が休みなしで30分とありましたが、その倍の時間が掛かりやっと山頂近くのテーブルの有る所に到着しました。ベンチに腰をかけて周りを見ると、目の前にアブラチャンの黄色の花が春一番先に咲いていました。この山頂でお昼を摂り40分休憩を取りました。
戦国時代の堅固な山城 岩殿山(634m) No612_d0059661_10431868.jpg

                  山頂付近より雁ヶ腹摺山方面を望む
 この岩殿城は今テレビ放映中の「真田丸」とも関係があります。真田家が仕えていた武田信玄が亡くなり、その子武田勝頼は1582年に信長と家康の連合軍に攻められて、韮崎に有った新府城を放棄して岩殿城を目指します。武田24将の一人であった小山田信茂の岩殿城を目指しますが、信茂は武田を見限り勝頼に謀反を起します。
そして武田一族は追手に追われ甲斐の天目山で自害します。しかし、小山田信茂も家康の命令で切腹処分にされました。
その時、真田は勝頼を群馬の岩櫃城に招いていました。この両城は共に大変急峻な山城で堅固な城で有名でした。今でも岩殿城の山頂には馬場跡や井戸もある広い山頂です。篭城には最適と思えます。
戦国時代の堅固な山城 岩殿山(634m) No612_d0059661_10435134.jpg

                    春の山の花アブラチャン
 この山頂の城跡を見て下りは猿橋への東側の急な階段の連続する道を降り、途中で大きな岩の洞窟も見てきました。その道の周りにはアブラチャンの黄色の花が今は盛りと咲き誇っていました。
# by minoru_mogi | 2016-04-08 10:50 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)
 昨秋に高尾に青少年施設のある「わくわくビレッジ」の花壇を、我々のワイズメンズクラブが作ることになり、9月22日に菜の花の種まきと、日本水仙の球根、西洋水仙を植え付け、後日ジャーマンアイリスも更に植え付けました。
 ところが、菜の花の芽は出たものの花壇の日照が全く悪く12月になっても丈は10センチ位しか伸びていません。同じ時期に我が家の庭に播いた種から生育したものは、もう花が咲くほどの25センチにもなっています。
この日照の様子では冬の生育は悪く、これでは花は期待できないと思い、いっそう引き抜いてしまおうかと思いましたが、それも可愛そうかと思い、そのままにして置くことにしました。化成肥料も散布したところ、雑草ばかりが伸びてきて、12月中に3人で雑草取りをやりました。
高尾わくわくビレッジの菜の花 No611_d0059661_14501943.jpg

                  かろうじて咲いた菜の花と西洋水仙
3月になりその花壇を見に行ったところ、意外にも25センチくらいに伸びており、花が沢山咲いて明るい黄色の畑が出来ています。我が家のそれは1月半ばには丈が50センチにもなり満開を過ぎて、すでに花も終わりかけています。おそらくは3月になり太陽の位置も上がって日照も伸びて、冬の間は日が当らなかった場所が、かなり良好な日照に戻っていたのです。
 花壇の一部に何も植えてない場所が残っていたので、そこに矢車草の苗を植えつけ、5月にはブルーの花が咲くはずです。また、同じ時期にジャーマンアイリスの花も咲き出すでしょう。
菜の花は4月末まで咲き、5月には種が実ってきます。しかし、それは収穫せずに4月中に全部引き抜いてしまい、今度はダリアの花壇にしようと計画しています。
その中心には丈が4メートルにもなる皇帝ダリアを、隣人の家からもらいうけて、その根塊を植え付けます。また、同時に150センチにもなる大輪のダリアや100センチくらいのポンポンダリアを50個ほど近くのホームセンターのガーデニング用品で買い込み、4月中旬の植え込みを予定しています。
この夏には、ワイズガーデンにはダリアの見事な庭園が出来ることを夢見ております。
# by minoru_mogi | 2016-04-01 14:53 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 先日、私の家内の兄がいとこ会やらを主催して、長野県の上山田温泉で1泊の集いを催し、私も一緒に参加してきました。全部で12名の方々が集まり、その会に参加した人々は60~70台ばかりでした。地域的には長野市から上田市の近郊の人々、東京からは5人の参加です。
長野県真田町の真田氏歴史館 No610_d0059661_9461526.jpg

            真田氏居館跡の自然公園 アルプスが望めました

その翌日、今のテレビ番組「真田丸」の本拠地である上田市の北方6キロくらいの真田町を訪ねましたが、そこは標高700mちかい高原の盆地で、周りはリンゴ園やぶどうの樹が広がっていました。ここが真田氏の発祥の地であり、立派な真田歴史館がありました。広いバスの駐車場がある平屋建ての館内は、真田代々の鎧が幾つもあり、刀や駕籠なども展示されています。見ものは大阪夏の陣の大屏風が飾られており、その傍には真田氏に宛てた豊臣秀吉の巻物の書状もありました。
真田は真田幸隆が武田信玄に仕えて、その後昌幸が家督を継ぎ、武田家滅亡の後は1年の間に織田、北条、徳川と情勢に応じて主君を変えるなど外交戦略により領土を拡大し、上田城を築くなど、戦国大名としての地位を築きました。
徳川家康とも戦い、関が原の戦いでは、昌幸と次男の幸村が豊臣方に、信之は徳川方に別れて戦いました。真田家は信之により家名を存続して、松城へ移封となり、明治まで10代に渡って真田10万石として栄えました。
長野県真田町の真田氏歴史館 No610_d0059661_9465656.jpg

                   長谷寺(ちょうこくじ)と藁作りの馬
真田一族の墓所長谷寺(ちょうこくじ)は館より2キロくらいの山の近くにあり、先日の雪が沢山残っており、寺よりは墓は回り道をして行かねばならぬ程でした。真田氏居館跡は現在自然公園となっていますが、武田信玄の居館跡のつつじヶ丘館と同じ様に保存されていました。
まだ観光バスが1台来ていただけですが、これから観光客が大勢来るようになるでしょう。
# by minoru_mogi | 2016-03-25 09:55 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 2005年の5月より書き始めたエクスブログの発表数が、10年と少しで600話まで到りました。初めはこれらを本にしようとA4版の横で印刷しと250話まで印刷用の版を作っていました。しかし600話ではこれを印刷するとそのページ数が多くなり、とても自分で作成することは困難になりました。そこで考えたのがDVDに作るということです。
以前200話までの話をCDにして同窓生や友人に配った記憶があります。その頃に比べるとDVDの価格が格段に安くなっており、またCDでは容量が足りないためでもあるのです。最近ですとDVDの2倍速ではDVDの価格は10枚組で800円位で買えるのです。そしてカラーラベルを貼るのですが、そのラベルは20枚で600円です。合計では1枚あたり110円になります。そのラベルには南アルプスの間ノ岳を北岳の頂上から撮った山の画像を使いました。これらをこの記事の中に載っている方々と仲の良い友人たちに配ることにしました。彼らは高校の仲間や山仲間、知人等と幅広い私の人脈です。
ブログ作成600話達成のDVD化 No609_d0059661_10143374.jpg

 このブログの内容ですが、最初の頃は60年代で若かったのでブログのタイトル通り「山と高山植物」が中心であり国内のアルプスやそこでの高山植物、また、海外の山へも行き、マッターホルンやそこでのエーデルワイスなどでした。しかし、だんだんと低山歩きが中心となり、昨今はそれも少なくなってきています。そして博物館めぐりや展示会などの報告が多くなりました。
今まで良くここまで継続してきたものです。そんな中で好ましい記事が思いつかない時は今まで行った事が無い博物館、展示館などに敢えて出向くことがここ数年多くなりました。そろそろ隔週くらいに記事で悩まないように変えようかと考えてもいます。
でも、毎週記事を見つけて書く事こそが、私の脳を刺激して認知症の予防になっているのかもしれません。やはりなかなか止められません。次は800記事を目指しましょう。
# by minoru_mogi | 2016-03-18 10:16 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 日野市の高幡不動駅の割合と近くに土方歳三の生家が有ることは以前より良く知っていましたが、今まで訪問したことはありませんでした。今回は家内が運転する車で送ってくれることになり、都合よくそこに行ってきました。モノレールの万福寺駅の近くの今は住宅地の中にその場所はありました。また、その資料館は月に二度しかオープンしないので、時間も12時から16時と限られています。
館の前に着くと沢山の人達が来ており、何やら団体の一群が30名ほどおります。正門から敷地に入ると玄関前に歳三の上半身の胸像があります。それは写真の様な端正な顔立ちの姿をしています。これが歴女の心を捉えているのでしょう。
日野市土方歳三資料館 No608_d0059661_9123567.jpg

 その資料館は土方家の一部の一部屋に作られており、20坪くらいの展示場になっています。そこには彼が新撰組に入るまでの生活が判る品々もありました。彼の家は大きな農家であり、それと共に生薬の製薬卸もしており、彼はその薬を各地に卸に行っておりました。彼が背にして運んだ竹製に紙を張った入れ籠もありました。その製薬に使った薬研も展示してありました。また、剣術の稽古で使った木刀も当時の物がケースの中に展示されています。その実物大の木刀は大変重いものでした。
 40人近い人が部屋に入ったのであまりゆとりが無く、それを土方家6代目とかの若い女性が説明してくれました。また、彼が使用した会津藩の松平容保より拝領し使用した刀もケースに展示されておりました。
新撰組は京都を逃れ、甲州、上野、川越と官軍から追われ、近藤勇は流山で捕まりますが、彼は仙台から榎本武楊の船で函館に行き、その地で鉄砲に撃たれて落命しました。
やはり負け戦の側であったのでその遺品は少なく、少し寂しい感がしたのはやむ終えないことと思われました。
# by minoru_mogi | 2016-03-11 09:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)