山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 日野市職員の知り合いから、日野市立歴史館があるとの話を聞き、早速訪ねてみました。駅より宝泉寺の脇を通り、登りの坂をかなり歩くと神明3丁目の交差点に出ます。そこで左折して100m程も行くと左側にその建物がありましたがあまり目立つものではありませんでした。
日曜日でもあり、2人のボランティアの説明員がいたので女性の方の説明を受けました。館内は若い方や子供連れの方も来ています。丁度特別展として日野宿の地図や昔の鳥瞰図などが展示されており、入口近くはその展示が中心です。奥へと進むと新撰組の展示がありました。そこには新撰組副長土方歳三、六番隊隊長井上源三の資料の展示があります。彼らは佐藤彦五郎の道場で、近藤勇や沖田総司と共に剣術の稽古に励んでいたのです。その天然理心流では太い木刀を使用していたのですが、それは木の直刀で、そこに有ったものは普通の木刀の3倍もの太くて重いものでした。
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 そこを出て駅より12分とある日野宿の本陣を見に回りました。そこは都内唯一の本陣建築「日野宿脇本陣」であり、門構えも立派な建物です。日野宿は参勤交代の折に三大名が使用したそうです。宿には馬が25頭も準備されていました。そしてこの建物の昔は有った長屋門に道場があり、皆そこで稽古した所なのです。
新撰組との名称は京都に上ってからのものです、そして徳川家茂の警護が本来の目的でした。新撰組となって初めて幕府の家臣となり武士として105人が旗本となりました。しかしそれはほんの僅かな時間で京で官軍に破れ、甲府でも敗走して、彼らは最後に函館で最後の刀での戦いに臨んだのです。土方等はあたかも最後の刀の時代の幕引きした男達に思えるのです。
 実は、丁度1週間後に、私の在学した大学で珍しい楽器「オークラロウ」という尺八を改良して金管楽器とした新しい楽器の演奏会がありました。この楽器は昭和の戦前にケンブリッジ出の大倉喜七郎氏が考案したもので、今回はオークラロウ2本とギターの共演でした。その中で明治維新の時代を背景にして作曲された愛川聰氏の「志士なる果てに」という曲が演奏されました。その曲は激しいリズムとメロディーの曲で大変素晴らしいものでした。
今回は新撰組と関連したタイミングの良さに何か因縁を思いました。
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by minoru_mogi | 2014-11-30 21:11 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 今まで刀剣博物館なるものが有ると言うことは全く知らなかったのですが、たまたまTV中での紹介があり初めて知りました。京王線の初台駅から歩いて10分以内の近さですが、一寸判り難い場所でスマホのグーグルの地図案内で行きました。建物もかなり大きなもので、2階の展示室には数名の訪問者がゆっくりと見学しており、外国人の姿も散見されます。展示刀剣は重要文化財が多く、みな美しいものばかりでした。入場料は600円でした。
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ここで刀と太刀は別の概念であることを初めて知りました。即ち刀は刃を上にして腰に佩くもので、太刀は刃を下にして腰に指して馬上戦などで使用しるので、刃長は2尺(60センチ)以上の長いものが多いのです。
帰路は初台駅に行くにはオペラシティーの建物の中を通り抜けますが、その沈床広場には5メートル程もある電飾のクリスマスツリーが輝いていました。それはLED電球で飾られており、色が次々に変ってゆくとても優雅なものでした。
このオペラシティー私の籍を置いた企業が、バブル期前に高層オフィスビルを建てるべく、広大な当社の配送センターをその主な敷地として用意して、京王電鉄所有の少しの土地と他に数社の僅かな敷地を合わせて、オペラの上演も出来るホールを備えたイメージの高いビルとして建設するために、隣の国有地の空中権を500億円で買い建設に至りました。
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ところが、このビルが完成する前にバブルが弾けてビルの賃貸料が大幅に下落して大きな打撃を蒙りました。その結果他の企業に引き渡すことになったのです。隣の国有地には第二国立劇場が350億円で建設されて大成功となりました。
経営者としては大変大きな投資に踏み切った訳ですが、結果としてタイミングが悪く大失敗となったのです。
成功していればその経営者は芸術に理解があった経営者であったと言われたのでしょうが、タイミングとは難しいものです。そんな思いで深いビルを振り返りながら帰路にとつきました。
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by minoru_mogi | 2014-11-23 21:47 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 クラブの仲間7人と共に蔵作りの街川越をゆっくりと周ってきました。先ずはやはり江戸時代がそのまま残っているという感じの土蔵造りが続く家並みを見て、往時の火の見櫓の「時の鐘」や、旧い明治時代の銀行の建物を見て歩き、大正初期の建物にある食事処「右門」の二階の部屋で芋おこわの昼食を摂りました。その建物の階段は昔のままの急角度の幅の狭いもので、部屋の作りも昔のままで、ガラス障子も昔の曇りガラスや凹凸のあるガラスです。街中は電柱が無くて明るく、綺麗なトイレが其処ここに整備されており素晴らしい環境です。
 菓子屋横丁の賑にぎしいお店を見て周り、歩いて本丸御殿に向かいますと、途中にお城のお堀の一部が再現されてありました。川越城は現在の街の大半を占めていた大きな平城であったことが現在の地図との比較でよくわかります。関東平野には石取り場が無かったので城壁を積む石が無いので平城であり、一方城壁がある江戸城は伊豆半島から船で石を運び築城されました。
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本丸御殿は立派な建物であり、本丸、二の丸、三の丸、追手曲輪、新曲輪、と三つの櫓、13の橋からなり、往時は9万9千坪もあつたものであり、残念なことに現在においてはお城の有った時代の一割くらいの建物が残っただけで、他の建物は皆解体されてしまったのだそうです。そして残った部分は明治時代は県の役所として使用され、中学校の臨時体育館としても使用された時代があり、36畳敷きの天井が3メートルあった大広間はバレーボールに使用され、その球の跡がいっぱい天井に残っていました。しかし、それが故に今日までこの建物が残ったのだそうです。
 ところで徳川綱吉に重用された柳澤吉保は、私の故郷の館林城の勘定方の120石取りの武士の息子であり、18歳より館林城主綱吉の小姓として仕え、とんとん拍子に出世をして、川越城主の時には7万2千石、甲府城主では15万石となり、綱吉は吉保の邸宅に58回も出かけたそうです。いかに彼が将軍の信頼を得ていたかが判ります。
丁度開かれていた市立博物館の「柳澤吉保とその時代」展は大変充実した内容であり、市立博物館の催しではこれ程の展示会はあまり見たことが無いくらい立派なものでした。
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by minoru_mogi | 2014-11-14 15:26 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 私が卒業した大学で、大学の創立者銅像が作成され10月の18日にキャンパス内でお披露目がありました。創立は明治33年(1900)年であり、大倉商業学校として赤坂の葵町に開校されました。それは大倉喜八郎氏が商人として成功して、60歳の還暦を記念して1898年に学校の設立を決意したのでした。
彼の会社は日本で最初にロンドンに営業所を開設して貿易を行うと共に、国内では鹿鳴館の建設や東京電気を設立してゆきました。帝国ホテルも設立したのです。そのキャンパスは戦時中に焼け落ちて、赤坂の地から国分寺に移転したのです。
創立者の銅像は赤坂のホテルオークラの敷地内に集古館という博物館があり、そこに立派な像が2体あり、また、生誕地の新潟県の新発田市内にもう1体が有ったが故か、今まで大学にはありませんでした。
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卒業生の中から、国分寺のキャンパス内に銅像を作ろうという動きが出て、その思いに応えて募金をしたところ、予定の1億円を超える成績となり、像と共にOB会の施設の中に320席の立派なホールも作られました。
披露は旧図書館の前の広場で行われて、募金に協力した多くの卒業生が招待されました。像は台座を含めて4m近くあり中々立派なものです。開校以来112年振りに出現した銅像には、教育というものが時間を経て持っている力と、現在の大学の施設の充実が感じられて、大変に喜ばしいものと感じられ、素敵な1日となりました。
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by minoru_mogi | 2014-11-09 14:29 | 随想 | Trackback | Comments(0)