山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 新宿の百貨店に昭和37年(1962)年に就職して今年で丁度50年になりました。私はその大学卒の一期生として入社しましたが、同時に多くの高校卒業の人達も入社しました。その大半は女性であり、男性は3割ほどであったと思います。たまたま、家内もその1人で、その頃の人達と年賀状などを交換しており、是非皆で会いたいと常々言っていました。
そこで、これは私が音頭を取ってその頃の入社の方々とのOB・OGの集いを催そうと秋より計画に取り掛かりました。
場所についてはやはり働いていた新宿が良いと考えていたところ、たまたま会社の友人が紹介してくれたコマ劇場の近くの台湾料理の店を見たところ、丁度20人位の良い部屋があるのでそこに決めて計画を練りました。時期は3月か4月も考えましたが、その頃は皆さんの行事が多く、出席できる人が減ることを考えて、敢えて行事の少ないであろう1月25日と決定しました。
 開店より10年くらいまでの紳士服課で働いた社員・販売員・取引先の担当者の方で、今も住所が判明している方々に往復はがきの案内状を出しました。すると、奈良県に移り住んだご夫妻や、長野県に定住した人達から電話があり、是非夫妻で出たいとの返事があり、電話が沢山掛かって来ました。
多くて15人位かと思っていたところが、何と29名もの参加の連絡がありました。しかし、会費は当日集めることにしてありますので、風邪や雨でも降って寒い日にでもなると急遽の欠席者が出てこることも考えられて幹事としては気が休まりません。思っていた20名の会場では手狭の感じですが、狭くてもテーブルを近づけて話しやすい会場にしました。
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当日は天候も良く29人全員が集合しました。レストランの空いてくる1時から会を始め、中程で1人1分の近況報告を各人にしてもらいましたが、やはり積もる話が多く、時間は有って無きが如くでした。会の終わりはレストランの好意で4時40分までと3時間40分にも及びましたが、お互いの話は尽きません。本当に40年振りに会った方も多く、その体の変わった人達が居るのにはには驚きでした。そして、次は2年後に同所で同じ頃に会を開くことを決定してお開きとなりました。しかし、それでもまだ話をしたい人が多く、今度は喫茶店で1時間も更に話しが続いたそうです。
 後日、皆さんからお礼の電話が沢山入り、手紙も沢山頂き、いかにお互いの話に飢えていたのかが分かり、この会を計画したことで皆さんが喜んでくれたことを大変嬉しく思いました。
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by minoru_mogi | 2012-02-23 11:48 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 私は学生時代に4回下宿を替えています。最初の青山からは、学校に近い国分寺に移りましたが、そのお宅は鶏をたくさん飼っており、食事が殆ど卵料理ばかりで2ヶ月位で替わりました。次に移った先は大学の正門前に近い青雲寮というところで、部屋数10数室の平屋の6畳の部屋でした。当時では6畳は学生の部屋としては広い方で、普通は4.5畳が標準でした。
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 この下宿のオーナーは神田で古本屋を開いていたご夫妻でしたが、ご主人が軽い脳梗塞で歩行に困難があり、そこで国分寺へと移り下宿をやったそうです。ご主人は毎日リハビリで歩行練習を廊下でしていたものです。このおばさんが私に言ったことがあります。「茂木さん、大学では遊学すると言うのです」と言います。多分、部屋で本をよく読んでいた私に、学生時代は幅広く色々なことを体験して吸収することが大切であると言ったのだと思います。
私の部屋は一番奥であり静かな勉強向きの部屋でした。ところが、この下宿ではマージャンはご法度でしたが、何時の間にかそれを破って部屋でやる人が出てきたのです。
すると、下宿のおばさんが決然と下宿の廃止を宣言したのです。それには下宿人の中で、留年や卒業できないような学生を出さないようにとの親心からと思われました。
しかし、この宣言により私もこの下宿を出なければならなくなりました。急なこと故に直に次の部屋が見つからず、友人で東京に家のある人に一時一緒に住まわせてもらうことにしたのです。下宿のその後は学生を入れないで、社会人のみを受け入れることになり再開されました。
暫くして、下宿のおばさんから連絡がありました。私に元の下宿の部屋に帰っていらっしゃいとのことで、喜んで前の部屋に戻りました。しかし、他の人は誰も帰して貰えませんでした。
その後、先輩の学生会の議長をしていた先輩が、私に「隣の部屋が空いたのでお前はそこに移って来い」と言われ、それに従い吉祥寺の下宿に再度移りました。この方が実に勉強家で毎晩夜1時半くらいまで勉強しますが、朝は7時頃には必ず起きているのです。私も真似をしましたがとてもかないませんでした。この方の生活態度を少しでも真似たことで、今日の私が有るのも事実です。良い先輩に恵まれた事を今も思い出しています。
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by minoru_mogi | 2012-02-17 21:33 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 山梨市での会合があり、予定より早めに終了したので、機会があれば訪ねてみたいと思っていた根津記念館を訪ねてみました。根津嘉一郎の名は青山の根津美術館として有名であり、近年改修された同館は素晴らしいものです。氏は山梨県の今の山梨市出身で、万延元年1860年生まれで1940年歿しています。若い時に村長となり県議を経験してから東京に出て経済界で活躍しています。
 この山梨の旧宅は土塀に囲まれて長屋門を有する広大な敷地(6700m²)であり、往時は山梨県で2番目の大地主であつたと説明がありました。今では市の管理している有形文化財です。
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駅前の道の駅で無料の貸自転車を借りて、笛吹川の土手より桃の果樹の畑の中を行き、回り道をしましたが30分ほどで行き着きました。畑中には清らかな水が勢良く流れており、水車があり氷が張り付いていました。辺りからは南に御坂山塊の上に富士山が顔を出し、北には乾徳山や黒金山が雪で光っています。
記念館には10名ほどの人達が館内を見ていました。長屋門は16間と大きくて立派です。母屋は沢山の部屋がある2階建てであり、それに続く茶室のある青山荘、母屋内接する土蔵があり、外へ出ると八蔵という土蔵が連なり、そこが展示室となっていました。そこには生い立ちの資料が展示されており、その歴史が判りました。
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広い庭には流水と池がある伸びのびとした日本庭園があり、そこには20羽に近いマガモが住み着いており、夏でも北に帰らないのだそうです。しかし昨日一羽が鷹に襲われてしまったと管理人の方が話してくれました。長屋門の端に平等(ひらしな)という飲食の出来る土産品を売る店もあり、特産品を土産に買いました。
 帰りの道は笛吹川の堤防の上のサイクリング道路を行くことにしましたが、見晴らしは素晴らしいのですが、登り勾配と北風に悩まされ、万力公園には寄らずに駅へと帰り着きました。
今回の機会を逃すとここを訪れるチャンスは無いものと思い、行って良かったと思いましたが、帰りは遅くなり帰宅は7時前ともなってしまいました。
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by minoru_mogi | 2012-02-08 10:21 | 随想 | Trackback | Comments(2)
 支店1号店の町田店は、昭和51年(1976)に私は部長代理として担当したことが、私にとって実に幸いなことでした。店全体で新しい発想を取り入れて大いに売り上げを伸ばしたものです。記憶に残るチャレンジのひとつに学生服の売り上げの大幅アップがあります。学生服は利益率が高く、値下げをする必要がない優良な商材なのです。
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最初、町田店では周囲の高校が沢山あるのに学生服のその売り上げは年間500万円位しか売れないのです。どうしてか調べてみると私達の店は各高校の指定店に入っていなかったのです。町田には地元の小さな百貨店があり、よく調べてみると全店売り上げが65億円ほどですが、学生服の売り上げでは5億円以上も売っていました。
更に色々な手段で調査すると、その店では各校の学生服購買の担当の先生達を頻繁に新宿のレストランで接待しており、年間500万円も使用していました。私達の店ではその様な方法は取れませんので、正攻法で行くしかありません。
 商圏の町田市と相模原市の年齢別人口構成を足してグラフを作ってみると、高校生の人口が更に伸びることが判りました。さらに両地区では高校の増設の計画が有る事も知りました。そこで、課内のお話上手な小林君を学生服専属として各高校を訪問させる事にしました。
先ず相模原市の南部8校の指定を獲得する事が出来ました。それと同時に有力な岡山の学生服メーカーの取り込みを図りました。競争先の取引先の1番は岡山児島の日本一の学生服メーカー尾崎商事です。第2番手をこちらの陣営に取り込む作戦を立てました。
そこで岡山のテイコクに学生服担当の小林君と一緒に出掛けて同社の専務とお会いしました。私は来年には2000万円、2年目は4000万円、3年目は7000万円、5年目に一億円を売り上げて見せますと詳細な計画を話しました。当時その会社の年商額は100億近くでした。
暫く考えてから専務が「やりましょう」と答えてくれました。その決心は今有る他店での売り上げを減らしても将来性がある当社に肩入れしてくれたのです。売り上げ目標の一億円は一年遅れて6年目に達成しました。これにより町田店特有の背景を活かした売り上げ増になりました。
地元の吉川百貨店は間もなく閉鎖されましたが、伝統のある学生服部門だけは別会社として独立して今も健在です。
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by minoru_mogi | 2012-02-03 21:39 | 随想 | Trackback | Comments(0)