人気ブログランキング |

山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

<   2009年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧

リンゴの大敵 No250

 以前、我家の庭に暑さに強い群馬県の農事試験場が作出した「赤城」という品種のリンゴの樹を植えており、秋には10個くらいの実を付けたが、害虫が樹についてしまい収穫はほとんど出来なかった。
d0059661_11565893.jpg
その最大の敵はゴマダラカミキリ虫である。この虫は樹の中に進入してその樹皮から食べた木屑を毎日押し出してくる。殺虫剤を注射器でその穴に注入したが、さほどの効果は上がらずに、数年を経て幹は穴だらけとなり、樹勢が衰えて枯れてきてしまい伐ってしまった。
 実は、家内の里にはリンゴ畑があり、200本近い樹に立派なサンフジが成り、毎年11月にはその収穫のお手伝いに行くのが恒例となっている。
今年の5月にその地区一帯に雹が降り、大きくなりかけてきた果実に大きな傷痕がついてしまい、秋の収穫にも傷の無い実の出荷が期待できないとの話を聞いていた。家内が田舎へ出掛けた折にその様子が判るリンゴを1個持ち帰ってきた。この実を見た時に雹の被害がこれ程までに酷いのかとまざまざと知らされた。
d0059661_11574655.jpg

実の大きさが伸びるに連れてその傷痕が目立ってきていると言う。その地区の畑は皆リンゴに限らず大被害を受けたとの話であった。
昨年の秋の収穫では、芯食虫の被害も例年になく少なく、鳥の食害はかなり見られたが、全体としては果実の数も多く豊作であったのと比べ、あまりの落差に驚いた。
しかし、今年も収穫のお手伝いには行くことになるが、大半の実はジュースの原料などに回され、生食用に出荷出来るものが僅かでしかないであろうと心が痛む。
食料自給率の向上が問題視されているが、農業の大変さを実感する話である。
by minoru_mogi | 2009-08-28 11:58 | 樹木とその花 | Trackback | Comments(1)
 カラスウリについてはその花や果実について知っている方が大多数であると思います。このブログの152話のカラスウリの話の最後に、このスズメウリについて触れていますが、画像が無く詳しくは説明しておりません。
しかし、最近庭の雑草やら蔓やらを取り除いていたところ、思いがけずに梅の枝にこのウリが絡んでいるのを発見しました。3年ほど前に短い蔓がありその姿を見てはいましたが、既に絶えてしまったものと思っていたところ、意外にもまだ残っていたようです。
でも、最初はどうして我家の庭に定着したのかは不明であり、鳥がその種を運んだものかもしれません。
 このスズメウリの名は、カラスウリに比べて小さいので付けられたと書かれおります。
d0059661_14282733.jpg

確かに、その葉はカラスウリの半分くらいの大きさであり、その花は全く異なりカラスウリが夕刻より開花して、レースのような花を咲かせるのに比べて、こちらは日中に咲き星型の5裂花であり、径は7mmくらいです。しかもその実の直径は1cmくらいであり、熟してもカラスウリの様に紅くはならず、灰白色をしており全く目立たないものです。
生息地も限られると思えて、我家の庭以外では目にしたことはありません。このつまらない雑草ですが、植物分類学や生態学を自分なりに見つめてきた私にとっては極めて魅力のある注目すべき植物なのです。
by minoru_mogi | 2009-08-22 14:29 | 樹木とその花 | Trackback | Comments(0)

赤富士 No248

 葛飾北斎の富岳三十六景の中の赤富士は大変有名であるが、富士もデフォルメされており、その色も誇張されている版画 (この地は三つ峠山の説あり) と思っていた。ところがこれに極めて近い光景に遭遇した。
 8月初旬の週末に孫二人と共に六人で山中湖の宿へと道志道をゆっくりと車で出掛けた。山伏峠のトンネルを抜けると、思いの外に天気が良く青空も見えているが、富士山は裾野が見えているだけである。夜になると星空が少し開けて、山の方を見ると山頂に向かって山小屋の灯と登山者の懐中電灯と思える薄い明かりがチラチラと続いているのが見える。
 私が富士登山に出掛けたのは高校生の夏休みに生物部の人達と一緒に行った時である。富士吉田の浅間神社より登り始め、馬返し、1合目と霧の中を8合目の山小屋へと着いた。翌朝は朝から雨が続き、山頂は諦めて須走り口へと赤茶けた溶岩の砂を滑りながら下って行った。当時はまだビニールの袋は無かったので、リュックサックの中の物は全て濡れてしまい、着替えも濡れ大変な思いをしたものであった。
d0059661_22122699.jpg

 今回のホテルで翌朝露天風呂に入ると、富士山の全景が見える。8月なのに珍しくも残雪の筋が山頂付近には残っている。丁度日の出の頃であり、山が赤みを帯びてきた。この光景をカメラに収めたいと思ったが、デジカメを風呂場には持参していない。そこで、慌てて風呂を出て部屋へと戻り、部屋のベランダから写したものがこれである。
そう言えば、山中湖の吉田よりに紅富士の湯というにがあるが、その様な富士が見えるのであろう。温泉よりの山の赤さはこの写真以上に紅く、紅富士の言葉の意味を理解した。
by minoru_mogi | 2009-08-16 22:14 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)
 幕末の文久元年(1865)に日本を訪れたドイツ人シュリーマンは、1ヶ月にわたり横浜から、幕府が外国人に許可した横浜より10里(40km)までの各地を見て回ったが、6月18日の午後3時に横浜を英国人6人と共に馬で(馬方は徒歩で付いていった)八王子に向かった。その最初の休憩で立ち寄ったのがこの豊顕寺であつた。
 実は私にとってこの寺の名前は実に印象の強いものである。昭和18年、私の通う幼稚園の遠足の地であり、母と共にバスに乗り桜の咲くこの寺へと行った。私の家からは3キロくらいの所であったが、初めての遠出でもあった。園内には池があり、そこには沢山のオタマジャクシが泳いでいる。初めて目にするこの光景は私を興奮させるに十分であった。空き缶にオタマジャクシを数十匹入れて持ち帰ることにした。
d0059661_14265184.jpg
その忘れる事が出来ない光景がバスを降りる時に起こった。持っていた缶が床に転がってしまい、バスの床の上でオタマジャクシが身をよじっており、多くの乗客がそれを注視しているが、それらを拾って缶に戻している時間はないので、母にせかされるままにバスを降りると、バスは直ぐに走り去っていつた。この光景は子供の私の頭の中に染み付いて残った。
 この寺にシュリーマンは休憩で立ち寄ってその光景を日記に記している。
「高名な豊顕寺には、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心をうたれた」と感動を記している。それには日本に来る前に中国に立ち寄った際の「ごてごてと飾り立てた中国の寺は、極めて不潔でしかも頽廃的だったから、嫌悪感しかかんじなかった」とある。
d0059661_14273788.jpg
この寺は江戸時代の享保5年(1720)に幕府より壇林(僧侶の教育機関)として認可されてから、学舎5棟、学寮25棟を有し、常に200名の僧で賑わう大寺院となったが、明治の火災や関東大震災、太平洋戦争で災禍にあい、往時の面影を語るものは今では多くはなく、江戸時代より桜の名所として著名であったその大樹の林が今でも鬱蒼としている。
 今の寺の様子はコンクリート作りのもので、寺の屋根の最上部には三つ鱗の紋所があり、かつて北条氏の庇護を思わせることを物語っている。帰路の三沢上駅には山門の前を流れる流水公園に沿って戻つた。
by minoru_mogi | 2009-08-10 14:28 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 横浜開港150年の催しの一環として、この「海のエジプト展は6月23日から、みなとみらい駅に近いパシフィコ横浜で開催されています。
d0059661_2017092.jpg
この内容はエジプトの海底よりよみがえった古代都市アレクサンドリアに焦点が当てられたものです。古代エジプト王朝末期のプレトマイオス期に、その栄華を誇った地中海の大都市アレクサンドリア・ヘラクレイオン・カノープスの地中海都市、クレオパトラの宮殿のあったエジプト第二の都市であり、国際的交易の中心地として栄えた歴史的都市です。
 会場へは横浜より東急でみなとみらい駅へと行きました。この駅は地下駅ですがそのコンコースの空間の広さ、天井の高さは地下駅とはとても思えない、実に立派な駅なのには驚きました。地上に出るとそこには高層のビジネスビル街ですが、隣のビルとの空間が広く、樹木が緑の影を落とし、海からの風が心地よく吹いてきます。
 会場入口の発券窓口に行くと、予想に反して全く混雑しておりません。ほとんど並ばずに買える状態でした。開催より10日目の7月7日であり、まだ夏休みにも入っていないのが理由かなとも考えましたが、高校生の団体が数台のバスで見学に来ている姿もありました。
d0059661_2018111.jpg
展示内容は石像・石碑・小型のスフインクス・コイン・アクセサリー・金属の日用品等、その時代の490点とされており、精巧なアクセサリーなどには多くの女性が足を止めていました。石碑の一つは、ほんの最近に作られたのではないかと思えるようなヒエログリフ文字のものもあり、これはたまたま海底に碑面を下にして横たわっていたために、碑面の劣化が少なかったとの説明文がありました。
また、これらのヒエログリフの内容はギリシャ文字でも書かれたものがあり、ほとんどが解読されています。
それらから判ることは、その頃のエジプトはギリシャ文化が大きく影響を与えているということです。クレオパトラ自身もギリシャ系の人であったと推測されています。
さらに大きく私の興味を惹いたのは、この頃のエジプトの宗教にキリスト教が溶け合っているということです。紀元4世紀から6世紀ころのエジプトの宗教はコプト教という原始キリスト教が主であり、現代のイスラム教はまだ入っていなかったのです。現在でも約10%の国民はこのコプト教徒であると、最近のNHKの世界遺産の話の中に出てきました。その頃の十字架は「+」の印でした。
私が仕事の関係で親しくしていたカネボウの部長の紹介で訪れた、大阪都島のカネボウ美術館には、このコプトの織物の立派なコレクションがあり、時の佐野館長が私1人に付き添い、詳しく説明してくれました。これらの織物はほとんど羊毛と綿の交織の織物でした。
この美術館は戦前日本一の売上額を誇った「鐘紡」が蒐集したもので、三大収集品は、インカ帝国の色彩豊かなアルパカの織物、桃山期の能衣装のコレクション、それにこのコプト織物なのです。カネボウが倒産に到った話題を目にすると、私が仕事で接した立派な方々のことが何時も思い出されます。
by minoru_mogi | 2009-08-01 20:23 | 随想 | Trackback | Comments(0)