山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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<   2006年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧

 暮れの25日に中央線の猿橋駅から百蔵山へと向かった。以前登った折には駅から舗装道路を大月市のスポーツセンターまで汗ばむほどのかなり急な道を1時間近く歩いたものだが、今回は楽をしてタクシーで登山道の分岐点まで行った。
途中、同年輩のグループがエッチラ・オッチラ歩いているのを見て、何か少し後ろめたい気もする。そこから、思わぬ急坂を登ると杉林の中の緩やかな登りとなった。途中で富士山を望むビューポイントに出たが、霞んだ山姿である。落葉樹林を抜けると稜線に出て間もなく南面が大きく開けた広い山頂に出た。3グループと2人の単独行の人々がガスで温かい食事をしている。我々2人も熱いポタージュスープつきの昼食とした。
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 当日は予想を越えて暖かとなり、南風が斜面を昇ってきて、気温をみると14度を指しており、早春の山の感がある。ゆっくり山頂の景色を楽しみ下りにかかると、かなり急坂で張られたロープと樹に掴まりながら下る。この斜面には山つつじの株が沢山有り、5月末頃にはさぞかし美しい景をなしていると考えられるが、南面の暑さが思われる。道標にキヤンプ場の表示があったが、以前来たときにあったそれは今は無く、大月市の浄水場の大きな施設となっていた。
山道から舗装道路に出て高速道の近くに来て葛野川の橋を渡る。その橋の上からは小金沢からの山稜が滝子山へと連なり、何も遮るものが無い美しい姿を見せていた。
更に、桂川を渡り猿橋駅に戻ったのは2時を少し回った時刻であった。計画の電車時刻より一電車早く上り電車に乗りのんびりと帰宅し、夕方の犬の散歩の時間にも間に合った。
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by minoru_mogi | 2006-12-31 21:05 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)
 船は2日目の夕刻に名古屋港へ回航され、そこでやはり1日の荷降ろしをして夕刻伊勢湾を神戸へ向けて出航した。普通は横浜を夕刻に出航すると、翌日の午前中には神戸港に着くのであるが、この航海はラッキーなことに他の2港へ立ち寄り4日間の航海となった。
 最初の日、夕食が済んでから船内のバーへ行ったところ、ドアが堅く閉ざされていた。しかし、翌日聞いたところでは当夜9時過ぎにはバーは開いていたと他の乗客より聞いた。私が行った時間にはまだ日本の領海内(当時は3海里)を航行しており、領海外に出るまでは無税のお酒は売れないのだそうである。
 そこで、3日目の出航後9時頃にバーに行くと扉が開いており、バーテンダーが二人カウンターにいる。客は私ともう一人の男性であった。伊勢湾を航行中なので波は穏やかである。カクテル数杯とフランスのブランデーを注文して楽しんだ。これらは総て一杯50円であり、当時の街のバーでは国産のウイスキーの水割りが100円位であったと思う。
 冬の太平洋の紀伊半島沖を航行するので、風も有り波も高かったが、ヂーゼルエンジンの音も気にならずにぐっすりと眠れた。
翌朝、7時頃に神戸港の岸壁に着岸して朝食を船内で摂つて10時過ぎに下船した。そして、初めての元町界隈を散策して、2時過ぎ頃六甲山ロープウエイで山頂駅へ行き、数分歩いて六甲山ホテルに部屋を取った。夜の部屋の窓からは冬の冴えた空気の中で、瀬戸内海の海岸線が和歌山にかけて光のラインカーブを描いていた。
 翌日、神戸から大阪まで急行電車で出て、新幹線の終着駅であつた新大阪駅より東京へ戻った。帰りの財布を開けてみると、千円札数枚があるだけで、ボーナス袋は空になっていた。若くて良き時代の思い出である。
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by minoru_mogi | 2006-12-31 14:50 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 朝、目が覚めて舷側の窓の外を見ると、紅白に塗り分けた煙突と銀色の細い煙突が見え、その細い煙突の上では赤い炎が燃えている石油コンビナートである。船は停泊しているがどこの港か分からない。朝食に出て、やっと四日市港の沖に居ることが分かった。
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食卓はサラダ・グレープフルーツ・コーンミール・ポテト・注文卵料理・オムレツ料理・ホットケーキ・各種パン・コーヒー、紅茶と続く。卵はゆで卵を頼むと、「何分ですか」と聞かれたが、その時の私はそんな事は全く知らなかった。でも、グレープフルーツの半分が出て初めて食べたが、その食べ方は映画の中で見たことがあり知っていたのである。
部屋へ戻ると、朝シャワーを浴びて使用した2枚のバスタオルとマットも交換されており、靴もよく磨かれて並べてあった。昨日、乗船した折にボーイにチップとして渡した大枚の千円が効いているらしい。
 その日、船は四日市港で南米から積んできた羊毛の荷役があり、出航は夕方4時の予定という。後になり判ったことであるが、この近くにはユニチカや大東紡の工場が在った。夕方までの自由時間は一時下船して船のスケッチと街中の散策とし、昼食は船に戻り美味しい食事を楽しんだ。その頃の四日市はまだ公害の事が世間で騒がれる以前のことであった。
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by minoru_mogi | 2006-12-29 21:28 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 私は昭和19年7月まで横浜市の港から1.5kmくらいの丘の上に住んでおり、国民小学校の1年生であった。我が家から港は直接見えなかったが、師走の31日の深夜12時には、入港中の船が皆「ボーーー」と一斉鳴らす汽笛が聞こえてきたものだ。
 戦中・戦後の食料が乏しく空腹の時に、母がよく話してくれた客船内での食事の話しは、腹ペコの子供には夢の世界の話であった。
母は父の勤務で上海・広東・香港に居たことがあり、その旅で日本郵船の豪華客船、鎌倉丸に乗った時の話をてくれた。朝食はボーイが船室にトーストと紅茶を持ってきてくれ、ベッドの上でそれを食べ、正式な朝食はその後であったという。午後の3時にはデッキでアイスクリームが食べ放題で、夕食は長時間をかけて食べたことども、その頃の我々はアイスキャンデーが5円でやっと食べられた頃であった。そこで、子供ながら、何時の日にか客船に乗ってやろうと心に決めた。
 昭和37年に就職して自分で稼ぐようになり、初任給が18,000円であった。39年の東京オリンピックを経て、40年の1月に、当時国際見本市船として運航されていた三井大阪商船の初代さくら丸が普通の南米航路の帰路、横浜に寄港して神戸に向かう便に、半年前に予約して乗れる事になった。船賃は8,500円、時の私の給与は25,000円であったと記憶している。
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 横浜港の大桟橋を3時乗船、4時出航でドラの音を聞きながら浦賀水道へと向かった。部屋は1等船室でシャワーが備わり、舷側窓のついたこじんまりしたものである。
                           四日市港で荷役中のさくら丸
さて、期待の夕食30分前に、ボーイがチャイムを鳴らして客室前を廻り、夕食の予告をする。そして、2回目のチャイムで正装をして食堂へと向かう。食堂の入り口にメス・オフィサーが立っており、着席すべき席をボーイに指示して案内された。円形テーブルでは7・8人で囲み、お互いに紹介しあいナプキンを取る。
食事は先ずオードブルで始まったが、5種類くらいの中から、私はアンチョビー・ノルマンディーズを頼んだ。続いてスープであるがこれはポタージとした。次に鳥料理となり、食べた事がない七面鳥を注文した。今度は魚の料理である。これは平目のムニエルを選択した。メニューは日付の入ったもので、フランス語と英語で書かれてあった。肉料理の段階は3段である。先ず、コールドミートとあり、コンビーフという単語があったのでこれを注文した。ところが、出てきたものはたまに食べた事がある缶詰のものとは全く異なり、1cmくらいの厚さで切ったハム状のものが3枚載っている。後刻辞書で引くと、塩漬け肉とあった。2段階目はグリルドミートとあり、その中にビーフカレーという文字を認め、こちらを注文してみた。出てきたカレーはライスとカレーが別で、ジャガイモなどは全く入っていない濃厚なスープ状であった。第3段階はステーキであり、ウエルダンで注文したものは400gを優に超えるわらじ大であった。
そこからは、大きな甘いプディングである。続いて富士山の形のアイスクリーム。果物はボーイがコンポートに盛ったフルーツを各自が取るように廻ってきた。私はオレンジを1個取ったが、食べ方が分からず部屋に持ち帰り食べた。
最後のお茶の時間に紅茶を飲んだが、既に1時間半以上の時間が過ぎていたのである。
まるで貴族の夕食のようで、ホテルで当時食べても4,000円は掛かるであろうと推測した。乗船1日目の経験である。
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by minoru_mogi | 2006-12-22 21:44 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 12月11日の良く晴れ渡った朝、近くの丘陵ハイキングの気分で八王子城跡へと8時頃に家を出た。インターネットで西東京バスを調べると、八王子城跡行きというバスがあり、高尾駅南口発との時刻表が見つかった。それを信じて南口で降りてバスのポールを見ると確かにその文字が書かれていた。
しかし、予定時間近くになってもバスが来ないので、近くにいた京王バスの整理員に確かめると、そのようなバスは無いという。どうやら廃止路線となり書き換えられていないのであろう。慌てて北口に行くがここでも案内板にその路線は見つからない。そこで、タクシーで友人と二人で城跡へと向かった。
城跡入り口付近には管理棟があり、そこから古道を経て曳橋へと向かい川を渡り虎口から広々とした御主殿の跡地へと出た。d0059661_1021321.jpg
その広場から城跡の本丸へと登り口を見つけるが、標識が無く、たまたま近くに来た林業の関係者らしい人に尋ねてやっと入り口門の横から入れると教えてくれた。そこから登って行くと、梅林があり、その上から広い山道に出た。どうやらこちらが本道らしい。少し盛りを過ぎた紅葉の道を登って行くと、八王子の市街地が見える場所に出た。東には筑波山の山影と八溝山地が続く。
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八王子神社に着くと境内に直径80センチに近い大もみじの樹があり、大杉と競い合っている。その先には城跡の井戸があり、今も水が出る。本丸跡も立ち寄るがほんの狭い台地であった。
 針葉樹の林の中を上り下りすると富士見台(556m)に丁度昼に着いた。しかし富士山は雲の中で見えない。裏高尾の蛇滝口に降りるべく昼食後歩き出すと、ハイキング道と思っていたのが、なかなかきつい下りであり、途中で駒木野への表示があるので、予定を変えてその道に入るが、まだ歩く人が少ないとみえて歩きにくい。
木の間越しに中央高速の圏央道への工事中のループが見えてきて、更に下り高速の下をくぐると間もなく駒木野へと出た。そこは駒木野関址より高尾駅に近く、その関址に立ち寄りたいと言っていた同行の歴史好きの友人の願いは今回もお預けとなってしまつたが、2時半に高尾駅に着き、中央特快に乗り早々と家へと向かった。
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by minoru_mogi | 2006-12-15 10:08 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)
 同じ会社で仕事場も一諸であり、お互いの家も近く通勤が一緒であつた山の友人が58歳で逝った。会社への25分の電車の中で、隣に座り5分くらい話しをすると、彼は決まって文庫本を読み出す読書家の男であった。
山への造詣が深く、私が山に行くときの相談はいつも彼にしていた。
一諸に山を歩いた時には、山の花・樹・岩石にも詳しいのには驚いたものだ。山の猛者でもあり、北岳に夜行日帰りで行き、翌日は普通に出勤してきた。
 彼については私の知る逸話がある。彼は仕事で主任であったが、上司が係長への昇進を推挙をしようとした時、自分から辞退したいと申し出をしたことを、時の同僚の上司から耳にしていた。
思うに、彼は毎週の休みに行っている山歩きが出来なくなることを心配して断ったものと推定できた。この事は、間もなく山と渓谷社から著者として出版したヤマケイ・アルペンガイドの「奥多摩・奥武蔵」の調査・実踏と編集のためであると判った。そして、会社の早期退職プランに従って会社を辞め、山のガイド書の著作の生活に入った。
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 定年となった私は今まで時間が無かった山登りを再度活発に始めた。
そんな時、お互いの家に近い大衆飲み屋で、2人か3人で駄弁りの時間を持った。お酒好きの彼は実に楽しそうに快活に話し笑っていた。新聞に載った彼の山歩きの記事に、帰路地酒のある酒蔵に立ち寄る話しがあり、彼らしい文にニヤリとしたものである。
 今年の夏に、メールで山の相談をすべく連絡をしたが、返事が無く、忙しくしているのであろうと思っていたが、全く急な訃報であった。
祭壇の沢山の生花の中に山と渓谷社・岳人・実業の日本社の名前が並んでいた。山が第一の人生であったのだなあと、その純粋さを再認識することとなった。
葬儀の帰りの道で一緒の友人がポツリと言った。「山の死でなくてよかった」と。
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by minoru_mogi | 2006-12-09 10:25 | 随想 | Trackback | Comments(0)
12月初旬八王子の北郊外にある滝山城址公園に初冬風景を見に出掛けた。バス停を降りて二の丸へは、ものゝ10分くらいの緩い登りである。千畳敷を過ぎて本丸付近へ出ると、北側は切り立った崖となっており、160mの高さからは下に秋川が広い河原を見せ、その先には奥多摩の山影が望める。城址とはいえ戦国時代初期の山城であり、空堀があるので城跡であるというのが感じられるくらいである。本丸跡も狭いものであった。
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 桜の枯れ枝にはヤマガラが群れで来ており、その中にエナガも一緒に混じっている。
城跡より東に尾根上を行くと、桜の木が一面に植えられた丘陵が続き、花の頃はさぞかし見事なことであろう推測できた。クヌギ林の道を歩いて行くと、緑色の蛹を見つけた。落ち葉の中に落ちていたが、枝が付いていたので落ちてしまったものと思えた。
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途中、林の中のテーブルが有るところでサンドイッチを食べ、16号線の左入町方面に向かう。道の標識を見落としたとみえて、道が閉ざされたところに出てしまい、大きく迂回して道路へと降りた。そして、今度は台地上にある宇津木台の住宅街を抜けて、八高線の小宮駅へと向かう。オリンパスの工場を過ぎると多摩川が広く見えてくる。駅に着いたが時刻表を見ると2時台は1本しかない。それでも幸いに20分待って電車がきて15時には帰宅した。
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 夜、昼に見た蛹を調べてみると、ヤママユ(天蚕)と思っていたがウスタビ蛾(薄手火蛾)の繭であることが判明した。その蛾の写真をインターネットで調べるとやっと画像を見つけ出すことが出来た。小学生時代の理科の大好きな自分に戻っていた。
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by minoru_mogi | 2006-12-05 21:46 | 動物・昆虫・その他 | Trackback | Comments(0)