山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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カテゴリ:随想( 403 )

 友人より頂いたパンフレットにこの地の案内があり、はじめて見る名前なので訪問して内容を見てきました。

稲城・多摩・八王子・町田の4市にまたがる東西14キロ、南北2~4キロの面積が3,000ヘクタールという広大な面積の多摩ニュータウンが、昭和41年(1966年)より40年をかけて開発を続け、その中にこの地の290ヘクタール、770箇所の遺跡を発掘してきました。

その発掘の全容を展示する施設が昭和62年(1987年)に多摩ニュータウンの中心部に出来、入場無料で運営されています。

多摩センターの駅を降りてサンリオピューロランドの方へと行くと、そちらは直ぐ見つかりましたが、この施設の案内は全く無く、方向を間違えたかなと少し行くと、ある建物の前で施設の小さな表示があり、やっとたどり着きました。


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      竪穴住居の中の炉に火が起されていました。煙が上から出ています

 建物の中に入ると受付があり、中高年の見学者が4・5人展示品に見入っています。この展示場は中々立派であり先ず海洋から日本に移動してきた35,000年前くらいの海洋民族の歴史が見られます。次の部屋は古代人の火起しの実演のできる2種類の火起しの道具が幾つもあります。それらを自由に触れるので私もこれに挑戦しました。何度も試してやっと良く回すことが出来る様になりました。

古代の織物、古代の食物、なかでもドングリや栗を使った古代のクッキーの作り方の説明が判り良く実物が展示されています。

更に進むと縄文土器が沢山展示されています。思ったより大きな土器が多かったには驚きでした。また、手のひらに乗るような大きさの女性の人型が10数体あり、おそらくは子供の出生を祈るために使用されたのではと推察されました。

 施設の隣は広い林があり、その中にここに有ったとされる縄文時代の竪穴住居があり、他にもより大きなもの等3棟のが有りました。その1棟の中には火が燃えており、煙りで家の屋根の茅を腐らないように乾燥させているものも有りました。

また、この地には縄文の遺跡は有るものの、弥生時代の遺跡は少ないとの説明でした。

この様な立派な施設ですが、あまり知られてなく、小学生などが学校から来ることが多いのだそうです。80歳の私のような老人が見に来るのは珍しいのでしょうか。

関心のある方は是非とも訪問されることをお勧めします。


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by minoru_mogi | 2018-09-11 14:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 2006615日の夜はトルコ・イスタンブールのナイトレストランでステージでのベリーダンス(腹踊)を見ることになりました。

この折は阪神旅行社の11日間トルコ旅行に家内と共に参加しました。イズミール・パムッカレ・カッパドキア・コンヤ・アンカラ・フランボル・イスタンブールとトルコ国内の西半分を回りました。

6月のトルコは夏に向かっての乾季であり、麦が金色に輝き、その中に赤いケシの花が沢山咲いていました。また、ホリホック(立葵)が何処にも咲いており、背の高いアザミの紫も目立ちます。

毎日の食事も口に合い、ビールも美味しく、丁度季節のサクランボの生のジュースが大変美味しかったのを憶えています。旅の最後のイスタンブールでは市内の五つ星の素敵なホテルに2泊することになりました。1日目はブルーモスクやグランドバザールを巡りました。その夜は市内のショー付きのレストランでの会食です。

そのレストランは200人は入れる広い店でトルコ名物のベリーダンスのショーが見られます。78名のバンドが世界各国の音楽を奏でており、その客も殆ど各国からの外国人です。

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       イスタンブールのベリーダンサー

私の席はたまたまステージ正面より56番目の良い席に座っておりました。次々と各国の歌が演奏されて、その音楽に合わせてその国から来た人がステージに代表で上がり歌を歌って行きます。

すると、今度は『上を向いて歩こう』が流れました。そして次に『ソーラン節』が流れ始めました。その時、ステージの司会者が私を指差してステージに上がるようにと手招きをして来ました。
そこで、一般的には引っ込み思案の日本人のイメージを払拭するように、私は喜んでステージに駆け上がりました。そしてマイクを持ち「ソーラン節」を二番まで歌いました。他の同じ旅行団体の方々も、ステージを降りると拍手で迎えてくれました。

その折は私はブレザースーツでワイズのネクタイで正装していました。音楽の次は楽しみにしていたトルコの有名なベリーダンスです。中年の女性と2人と若い女性の3人が踊りを披露しました。大変なまめかしいものでした。

踊りが終わり暫くすると、先ほどの踊り子がステージを降りて客席の周り、私の気付かぬうちに後ろから私を抱え込み、前からは写真を撮られました。

急なことなので私は驚きと半分嬉しい顔をしており、家内は口をポカンと開けています。まだ67歳の時の事で体調も良く大いに楽しんだ旅でした。昨今はパソコンの中のこれらの旅の写真を見て、昔の思い出に耽ることも多くなりました。


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by minoru_mogi | 2018-09-03 12:08 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 暑すぎる毎日で外出する気にならないので、冷房の利いた居間で過ごす事が多くなり、何もしないのでは手持ち無沙汰なので、パソコンを開いて色々と見ています。そんな訳で、何時もの夏は出さない暑中見舞いの葉書を作ることにしました。

以前蓼科高原で7月に描いたコオニユリのスケッチを入れて爽やかなものを作りました。

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書中葉書に使用したコオニユリ

そして今も交流のある仲良しの高校仲間7人と仕事関係で今も年賀状を交換している6人に、葉書を印刷して見舞い状を書いてポストに入れました。

 すると暫くしてから同じ日に2通の葉書が配達されました。一人は仕事仲間の私と同年の鎌倉に住んでいる方で、奥様よりの葉書であり、ご主人が今年の4月に亡くなった旨の記入があり、まだ自分は夢の中のような気がするという報せでした。

このご主人は大変心優しい方であったので、奥様も大変淋しい思いをしていることが良く判る内容でした。

 もう一方の奥様は中学時代から隣席で仲良くしていた秀才で、もう10数年来病院で入院しており、回復の見込みは全く無いご主人の面倒を見ている方でした。その葉書は素敵な野草のスケッチ画があり、自分で描いたものと思われました。

 私の年齢も80歳を過ぎると、誰が亡くなっても不思議ではない年齢なのだと実感させられました。

そこで早速このご主人を亡くされた奥様には、丁重な手紙を書いて文の最後に合掌と書き込みました。

この合掌の文字がまぶたの底に残っており、毎晩思い出されます。


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by minoru_mogi | 2018-08-16 10:22 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 府中市の西方にこの古墳はあります。JR南武線の西府駅より歩いて10分くらいの甲州街道の交通量の多い道路より100mほど離れたところです。6月末の暑い日に出かけましたが、その日後刻関東地方は梅雨明け宣言が出されました。

国史跡に指定されている飛鳥時代7世紀中頃、今より1350年程度前に作られたもので非常に希少な形の古墳です。この墓は3段構造で各段とも土で築かれており、1,2段目が正方形で3段目が円形です。そして2,3段目が全面川原石で覆われています。1段目外周には直方体に面取りされた切石です。

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 この復元された古墳は高さ5m、1段目は32m上円部の直径は16mです。石室の玄室は丸みを帯びた部屋で大きな石が使われています。復元された物は実に立派ですが、この墓は神社の境内にあり、周りには幼稚園や一般の住宅に囲まれており、周りが空いていればさぞや立派に見えることでしょう。まだ大和朝廷が全国を統一しておらず、地方の豪族の墓と考えられているようです。しかし、その近く迄東山道が来ているのは、後に府中となり国分寺が全国に建立されてゆくものと思われます。

この神社の境内には古墳資料館があり、ビデオの放映や展示、隣接して玄室の実物模型があり中に入ってみました。天井が低いのでヘルメットをつけての見学でした。

 以前、群馬県の高崎市内の保渡田古墳を見てきましたが、こちらは前方後円墳で埴輪が沢山並んでおり、榛名山の噴火に依り埋没されたもので、往時の埴輪がどの様に並んでいたかが明白にわかりました。暑い日でしたが充実した1日でした。


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by minoru_mogi | 2018-07-01 15:57 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 家の近くの畑にこの春には実に美しい花が咲いたジャガイモ畑があります。これは幼稚園のオーナーが所有する畑で、毎年幼稚園児達が、7月頃にジャガイモ堀を楽しむ畑なのです。散歩の折に何気なくそのジャガイモ畑を見ると、何と花のあとに4~5個の、直径7ミリ位の実が成っているのに気付きました。

それも1株や2株ではなく、沢山の株に実がついているのです。ジャガイモに実が成るなんて今迄全く見たことがありません。あまり珍しいので早速デジカメを用意してその姿を撮ってきました。


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夜、パソコンで「ジャガイモ、果実」で検索したところ、実の付いている写真がありました。それに依ると、このジャガイモは普通の男爵いもやメイクイーンでなくて、澱粉を取る種類であると解説してありました。確かにこのジャガイモ畑は全株良く花が咲き、美しいものでした。一般のジャガイモは全部花が咲くなどということは無く、大体一割くらいしか花は付きません。ジャガイモは茄子科であり、この実を植えても育つことはないそうです。

 以前、北海道の釧路市の友人を大学仲間と8月末に訪ねた時に、道東ではジャガイモの収穫期であり、広い畑にジャガイモが掘り上げられており、近くの小さな川には鮭の群れが遡上する姿をみて、そこから知床の宿へと向かいました。

今、思い起こすと実に楽しい大学仲間との北海道旅行であったことを思い出しています。


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by minoru_mogi | 2018-06-15 15:10 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ワイズメンのわくわくビレッジでの花壇の花作りの作業はもう4年目にもなります。

作った花々はかなりの失敗の連続でもありました。特に記憶に残るのは1昨年の皇帝ダリアです。夏には背丈が2.5mほどにもなり、秋には沢山の花が楽しめると大いに期待していたところが、花が全く付かなかったのです。同時に植えた一般のダリアもヒョロヒョロの状態で花はほとんど見られない状態でした。原因は日照不足です。また、長く咲く花としてサルビアの種を播いたところ、これも芽が出ても育たず失敗に終わりました。この時の館長の佐藤さんが熱心に協力してくれましたが、上手く行かなかったのです。

しかし、年々環境を理解して日陰に強い花を植えるように務めた結果今年の花は上手くいっている様子です。正月前後には日本水仙が密度は少ないが白い花を長く咲かせており、2~3月にかけてはラッパ西洋水仙が咲きました。同じく3月に良く咲く菜の花が黄色の絨毯にはならず、昨年9月の種の播き時が12週間遅かったのが原因でした。

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5月には例年より早くジャーマンアイリスが黄色から先に咲き出し、遅れてブルーが咲くという同じ物でも色毎に咲く時間が違うことが判りました。また、その中には白色の物が無いのが判ったので、後日白色種を植え付けておきました。5月半ばには千鳥草のブルーの花が咲きそろいました。



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                   ブルーの鮮やかな千鳥草


7月の暑くなる頃には昨年植え付けておいたインパチェンスの種がこぼれて、その芽が沢山て来るものと考えられますが5月末に見に行った折には、まだ全く芽が出ていません。7月中旬には今年植え付けた3本の鹿の子百合が立派な花を見せてくれるでしょう。

暑い8月には乾燥に強い松葉ボタンが咲く予定ですが、これもまだ芽が見えていません。

 9月になれば秋分日頃にマンジュシャゲの花がアスパラガスのようにニョキニョキと花茎を上げてくるでしょう。

毎年色々と花を一部変えて試して一番この場所に合った花を見つけ出すのが大切です。会の皆さんの協力を得て更に綺麗なワイズガーデンを目指して行きたいものです。


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by minoru_mogi | 2018-05-30 20:33 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 私は歴史の話しにはかなり興味があります。特に縄文時代、弥生時代、古墳時代あたりが面白く、まだ判らないことが多いので、それ故に自説を言える楽しみがあります。

 以前仕事の折に日本人が着ていた繊維史について調べてみようと思い、特に紙の衣料「紙子」について熱心に調べてみました。

その中で奈良東大寺では1235年もの間、昔のまま「お水取り」の行の中で使用されていることを知り、現在ではそれに使う紙は宮城県の白石市で作られていることが判り、その紙を作る遠藤紙工を訪ねてみました。

同じ頃、仕事の関係で奈良にある紳士靴下の工場を見に行きました。仕事が早く済んでその会社の60歳代の社長さんが「奈良で見たい所が有ったら案内しましょう」と言います。

そこで、奈良橿原市の「今井町」で環濠集落と江戸期の家屋群を見たいと言うと、「今迄何十人となく百貨店の人が来たが、『今井町』と言った人は初めてだ」と言い、それならばと自分で今西家などを案内・説明してくれました。

そして東大寺の話となると「そうだ、我が屋は東大寺の講中であると言い、「ここ数年お水取りの行事に行っていないので、是非宿坊に泊まって見に行きましょう」と私を誘ってくれました。そして奥様と3人でお水取りの日に出掛けました。

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             平城京第二大極殿跡より春日山を眺める

そんな訳で、あの有名な奈良東大寺の春の行事のお水取りの行を二月堂の中で初めから終わりの朝4時まで一緒に見ることが出来ました。また、別の機会には当麻寺の宿坊にも泊まる機会を作ってくれました。

 その後、定年になり仕事を離れて暫くして、私と家内と共に仕事をしていた相模原の女性が、奈良の人と結婚して明日香村に住んで、そのご主人とも一緒に仕事をしたことがあり、家内の友人の女性と3人で明日香村へその家に泊まりで訪問しました。そして高松塚古墳、飛鳥寺、岡寺、甘樫の丘、亀石、石舞台、持統天皇陵、等を車で回つてくれました。翌日は私は一人で山之辺の道を桜井より天理まで一日歩き、昔の時代を偲びました。

その様な訳で奈良については興福寺、東大寺、正倉院、春日大社、唐招提寺、薬師寺、岩船寺、浄瑠璃寺等も何度も訪れています。これには堀辰雄の本を読んで訪ねたいと思った寺院もあります。

 そして、今年の春の奈良への旅では、以前仕事の折に有力な取引先であつた奈良在住の2代目の社長T氏が、今年仕事を退いたとの連絡を受け取り、もし奈良へ来たら一緒に食事をして昔の話もしましょうとのお誘いがあり、私は丁度名古屋と奈良への旅行を計画していたので、これを機会に奈良でお会いすることにしました。

4月19日に近鉄で京都よりT氏のお住まいのある学園都市駅に昼近くにつきました。すると丁度T氏が駅に出向いて来ており、二人で駅近くのお宅までほんの少し歩きました。そのお宅は敷地も広大で立派な鉄の鋳物の扉があります。「この扉を見て下さい」と言い、確りと見ると、何とそれは薬師寺の五重塔の上にある飾りの水煙を鋳造したものでした。

「これは私が注文して作らせた物です」との説明にうなずき納得です。お宅の庭園の2本の松は素晴らし姿で、立派な庭師が手がけたものでしょう。

二人で近くの和食店に昼食で寄り、次に秋篠寺へと向かいました。そこは静かな寺で、庭園の苔が素晴らしく、伎芸天像は薄暗いお堂の中で際立つ美しい顔を見せています。

その後、先年平城京址を見た折に、時間が無く立ち寄れなかった平城京址資料館と第二次大極殿跡、遺構展示館を一人で回りました。

その日の夕刻、今度はしょうぶ駅前のイタリアンレストランで4人編成のジャズバンドの入っている店で、開店7周年のお祝いの席にT氏と二人で6:30から9:30まで美味なワインとイタリアン料理を楽しむことが出来ました。あまりの偶然の歓迎に感謝ばかりです。

翌日は奈良公園の国立奈良博物館の春日大社展をゆったりと見て、夕刻には八王子へ戻りました。

私にとって奈良は何時も素晴らし人達に会える夢の古都なのです。


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by minoru_mogi | 2018-05-08 18:58 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 改修工事のため1年間待っていたこの博物館は、今年325日に再開され、名古屋に1泊して見に行きました。名鉄「各務ヶ原市役所前」駅を降りて、駅前広場で博物館行きのバス時間表示を見ていると。「バリ、バリ、バリ」と聞こえる騒音で自衛隊の戦闘機が150m位の低さで滑走路から飛び立ってきました。地元の80歳過ぎの年配者と,娘さんと思える二人連れと話をしてバスの件を聞くと、市民バスが20分後に来てバス代は100円と言います。話をしていると又戦闘機が飛たってきて、全く話しが聞き取れません。

何時もこの様なのですかと聞くと、そうですとの答えです。この辺りは日本の航空産業の中心地で騒音に対して理解があるのかも知れませんが、それにしても大変です。

間もなくマイクロバスが来て出発し、車内で話を続け、私が八王子から来たというと驚いていましたが、この二人は途中で降りて行きました。

20分ほどバスに乗ると広大な敷地を有する博物館に着きましたが、門の前には大きな駐車場が整備されています。緑の原の中の博物館という様子です。

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 博物館の門を入ると広い前庭には大型の航空機が4機待ち構えています。入口近くには大型の2ローターのへリコプター、次にYS-11旅客機、その奥にはPS-1大型飛行艇です。最後に海上自衛隊の対潜哨戒機がありました。これだけでもわくわくしてきました。

広大な室内展示場に入るとそこには大正11年に川崎造船がフランスの会社と提携して、国産初の日本製の陸軍向け偵察機が複製されています。この機が各務ヶ原で製作され140機も作られたものです。

隣の部屋には戦闘機「飛燕」の戦時中の実機展示がされていました。これはドイツのメッサーシュミットの水冷エンジンの技術を導入したもので、同じ部屋には三菱の零戦の最初の機の複製が天井から吊り下げられていました。残念なことには戦時中に活躍した航空機の複製はありません。

戦後になり日本で航空機産業が再開されるまでは7年のブランクがあり、そこではプロペラの小型練習機やジェット自衛隊の練習機やヘリコプターなどが作られ、最近になり大型のヘリコプターや大型ジェットが作られるようになりました。

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そして、一番奥には大型実験機の4発のジェットが翼の上にある「飛鳥」が展示されています。本田ジェットがこの形式と同じなのは何か訳が有るのでしょうか。この機は500で離着陸できる短距離離着陸機なのですが、実用化は見送られたそうです。

さらに3階に上がるとロケットの展示場があり。H2ロケットのブースターの展示があり、その直径の大きさに驚き、さらには国際宇宙ステーションの日本の実験棟の実物サイズのものであり、大きさには目を見張りました。

2時間に亘り博物館の展示を見て、最後の入口近くのティールームで一休みを取り、1600近くのバスに乗りましたが、充実感に満ちた1日でした。


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by minoru_mogi | 2018-04-23 14:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 以前から一度訪ねて見たいと思っていた日本橋の貨幣博物館へと行ってきました。

地下鉄大手町より歩いて15分くらいで行きましたが、本来は地下鉄銀座線三越前の方が近いのではないかと思われます。

 博物館は日本銀行本館の南側の別館にありました。そこでは、入館の検査が実に厳しく、持ち物検査と金属探知機のゲートをくぐり、持ち物はX線検査機で調べられます。空港の検査と一緒です。しかし入場料は無料でした。丁度良い時間に行ったとみえ、13:30よりの説明員が案内してくれるグループの10人くらいの中で聞きました。

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                    右手が博物館

 先ず、最初の展示物は「和同開珍」の貨幣を見ました。私達は学校で日本で最初の貨幣として教わりましたが、しかし今は「富本銭」が日本最初の最初の貨幣ではないかと考えられており、和銅より古く、奈良から発掘されており、実物は奈良県立万葉記念館に現物が展示されているそうです。

しかし、これは出土数が少なく、本当に貨幣として流通したかは疑問視されているのです。

平安時代になると、中国から多量の銅貨が輸入され国内に流通し、大仏の製造にもこれらを使用されたものでした。戦国時代には武田信玄の甲州金が流通して、西日本では銀が、東日本では金が流通し、この交換をしたのが両替商であり、後にこれらの中から銀行へと進んだ者もありました。

江戸時代には藩札が各藩で発行され、それらには偽藩札が作られるようになったとあります。現在の10,000円札の製造コストは30円位だそうで、思ったより安いのには驚きでした。

貨幣が無かった藤原時代以前は、米と布が通貨の代りをしていたとは、考えても面倒な時代だったようです。現在は仮想通貨の時代に入る直前かもしれません。


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by minoru_mogi | 2018-03-30 15:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 3月中旬に、我が家では家内の親戚のいとこ会とやらを千曲市の上山田温泉で行う事となり、少し気が重かったのですが参加しました。私は温泉宿はあまり好みではなく、どの温泉に行っても一度しか湯には入りません。そこで、この折に楽しみとして興味がある上田城蹟と松代城祉を見て来る事にしました。

私は3月初旬に免許証を警察に返上しましたので、家内の運転する車で高速インターを上田で降りて,上田市の中心に近い城跡に向かいました。

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                 上田城二つの櫓と城門


市営の駐車場に車を置き、上田公園の中を行くと、立派な二つの櫓に挟まれた城門が有りました。周りは大きな石を重ねた石垣が目立ちます。

この城門は戦国時代には二度に亘り徳川の大軍を退けた固い守りの門だったのです。しかし、今は昔の物ではなく再建された物であると記してありました。でも、西の櫓は戦国時代そのものが残った物だそうでよく見て来ました。その直ぐ下には大きな井戸があり、それは太郎山の麓に続く抜け穴となっており、篭城の時にはこの抜け道を通り食料が供給されたと書かれてありました。千曲川の崖に面して、西、北、東は堀が部分的に残っています。

この夜は上山田温泉に泊まり、翌日長野市から近い松代町へと向かいました。途中車のナビが不調で地元の車の方に尋ねたところ、松代城まで案内してくれて大変助かりました。

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                   松代城本丸入口


松代城址は千曲川沿いの平地に石垣と濠を備えた平城であったもので、天守閣などはありません。この城は海津城とも呼ばれ、武田・上杉の川中島合戦の主戦場に近いものでした。

そして、後日真田家が関が原合戦後10万石の領主となり封じられました。

城はあまり見るべきものはりませんが、その御殿は今も残り、昔の御殿様式の建物は実に立派であり、その庭園も素晴らしいものでした。真田宝物館と藩校であった文武館を見て回りました。

春の暖かな日に城蹟から白銀の北アルプス・雪の飯縄山・高妻山・戸隠山を望み、遅い信州の春を堪能して来ました。


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by minoru_mogi | 2018-03-16 16:58 | 随想 | Trackback | Comments(0)