山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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カテゴリ:随想( 397 )

 私は歴史の話しにはかなり興味があります。特に縄文時代、弥生時代、古墳時代あたりが面白く、まだ判らないことが多いので、それ故に自説を言える楽しみがあります。

 以前仕事の折に日本人が着ていた繊維史について調べてみようと思い、特に紙の衣料「紙子」について熱心に調べてみました。

その中で奈良東大寺では1235年もの間、昔のまま「お水取り」の行の中で使用されていることを知り、現在ではそれに使う紙は宮城県の白石市で作られていることが判り、その紙を作る遠藤紙工を訪ねてみました。

同じ頃、仕事の関係で奈良にある紳士靴下の工場を見に行きました。仕事が早く済んでその会社の60歳代の社長さんが「奈良で見たい所が有ったら案内しましょう」と言います。

そこで、奈良橿原市の「今井町」で環濠集落と江戸期の家屋群を見たいと言うと、「今迄何十人となく百貨店の人が来たが、『今井町』と言った人は初めてだ」と言い、それならばと自分で今西家などを案内・説明してくれました。

そして東大寺の話となると「そうだ、我が屋は東大寺の講中であると言い、「ここ数年お水取りの行事に行っていないので、是非宿坊に泊まって見に行きましょう」と私を誘ってくれました。そして奥様と3人でお水取りの日に出掛けました。

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             平城京第二大極殿跡より春日山を眺める

そんな訳で、あの有名な奈良東大寺の春の行事のお水取りの行を二月堂の中で初めから終わりの朝4時まで一緒に見ることが出来ました。また、別の機会には当麻寺の宿坊にも泊まる機会を作ってくれました。

 その後、定年になり仕事を離れて暫くして、私と家内と共に仕事をしていた相模原の女性が、奈良の人と結婚して明日香村に住んで、そのご主人とも一緒に仕事をしたことがあり、家内の友人の女性と3人で明日香村へその家に泊まりで訪問しました。そして高松塚古墳、飛鳥寺、岡寺、甘樫の丘、亀石、石舞台、持統天皇陵、等を車で回つてくれました。翌日は私は一人で山之辺の道を桜井より天理まで一日歩き、昔の時代を偲びました。

その様な訳で奈良については興福寺、東大寺、正倉院、春日大社、唐招提寺、薬師寺、岩船寺、浄瑠璃寺等も何度も訪れています。これには堀辰雄の本を読んで訪ねたいと思った寺院もあります。

 そして、今年の春の奈良への旅では、以前仕事の折に有力な取引先であつた奈良在住の2代目の社長T氏が、今年仕事を退いたとの連絡を受け取り、もし奈良へ来たら一緒に食事をして昔の話もしましょうとのお誘いがあり、私は丁度名古屋と奈良への旅行を計画していたので、これを機会に奈良でお会いすることにしました。

4月19日に近鉄で京都よりT氏のお住まいのある学園都市駅に昼近くにつきました。すると丁度T氏が駅に出向いて来ており、二人で駅近くのお宅までほんの少し歩きました。そのお宅は敷地も広大で立派な鉄の鋳物の扉があります。「この扉を見て下さい」と言い、確りと見ると、何とそれは薬師寺の五重塔の上にある飾りの水煙を鋳造したものでした。

「これは私が注文して作らせた物です」との説明にうなずき納得です。お宅の庭園の2本の松は素晴らし姿で、立派な庭師が手がけたものでしょう。

二人で近くの和食店に昼食で寄り、次に秋篠寺へと向かいました。そこは静かな寺で、庭園の苔が素晴らしく、伎芸天像は薄暗いお堂の中で際立つ美しい顔を見せています。

その後、先年平城京址を見た折に、時間が無く立ち寄れなかった平城京址資料館と第二次大極殿跡、遺構展示館を一人で回りました。

その日の夕刻、今度はしょうぶ駅前のイタリアンレストランで4人編成のジャズバンドの入っている店で、開店7周年のお祝いの席にT氏と二人で6:30から9:30まで美味なワインとイタリアン料理を楽しむことが出来ました。あまりの偶然の歓迎に感謝ばかりです。

翌日は奈良公園の国立奈良博物館の春日大社展をゆったりと見て、夕刻には八王子へ戻りました。

私にとって奈良は何時も素晴らし人達に会える夢の古都なのです。


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by minoru_mogi | 2018-05-08 18:58 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 改修工事のため1年間待っていたこの博物館は、今年325日に再開され、名古屋に1泊して見に行きました。名鉄「各務ヶ原市役所前」駅を降りて、駅前広場で博物館行きのバス時間表示を見ていると。「バリ、バリ、バリ」と聞こえる騒音で自衛隊の戦闘機が150m位の低さで滑走路から飛び立ってきました。地元の80歳過ぎの年配者と,娘さんと思える二人連れと話をしてバスの件を聞くと、市民バスが20分後に来てバス代は100円と言います。話をしていると又戦闘機が飛たってきて、全く話しが聞き取れません。

何時もこの様なのですかと聞くと、そうですとの答えです。この辺りは日本の航空産業の中心地で騒音に対して理解があるのかも知れませんが、それにしても大変です。

間もなくマイクロバスが来て出発し、車内で話を続け、私が八王子から来たというと驚いていましたが、この二人は途中で降りて行きました。

20分ほどバスに乗ると広大な敷地を有する博物館に着きましたが、門の前には大きな駐車場が整備されています。緑の原の中の博物館という様子です。

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 博物館の門を入ると広い前庭には大型の航空機が4機待ち構えています。入口近くには大型の2ローターのへリコプター、次にYS-11旅客機、その奥にはPS-1大型飛行艇です。最後に海上自衛隊の対潜哨戒機がありました。これだけでもわくわくしてきました。

広大な室内展示場に入るとそこには大正11年に川崎造船がフランスの会社と提携して、国産初の日本製の陸軍向け偵察機が複製されています。この機が各務ヶ原で製作され140機も作られたものです。

隣の部屋には戦闘機「飛燕」の戦時中の実機展示がされていました。これはドイツのメッサーシュミットの水冷エンジンの技術を導入したもので、同じ部屋には三菱の零戦の最初の機の複製が天井から吊り下げられていました。残念なことには戦時中に活躍した航空機の複製はありません。

戦後になり日本で航空機産業が再開されるまでは7年のブランクがあり、そこではプロペラの小型練習機やジェット自衛隊の練習機やヘリコプターなどが作られ、最近になり大型のヘリコプターや大型ジェットが作られるようになりました。

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そして、一番奥には大型実験機の4発のジェットが翼の上にある「飛鳥」が展示されています。本田ジェットがこの形式と同じなのは何か訳が有るのでしょうか。この機は500で離着陸できる短距離離着陸機なのですが、実用化は見送られたそうです。

さらに3階に上がるとロケットの展示場があり。H2ロケットのブースターの展示があり、その直径の大きさに驚き、さらには国際宇宙ステーションの日本の実験棟の実物サイズのものであり、大きさには目を見張りました。

2時間に亘り博物館の展示を見て、最後の入口近くのティールームで一休みを取り、1600近くのバスに乗りましたが、充実感に満ちた1日でした。


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by minoru_mogi | 2018-04-23 14:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 以前から一度訪ねて見たいと思っていた日本橋の貨幣博物館へと行ってきました。

地下鉄大手町より歩いて15分くらいで行きましたが、本来は地下鉄銀座線三越前の方が近いのではないかと思われます。

 博物館は日本銀行本館の南側の別館にありました。そこでは、入館の検査が実に厳しく、持ち物検査と金属探知機のゲートをくぐり、持ち物はX線検査機で調べられます。空港の検査と一緒です。しかし入場料は無料でした。丁度良い時間に行ったとみえ、13:30よりの説明員が案内してくれるグループの10人くらいの中で聞きました。

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                    右手が博物館

 先ず、最初の展示物は「和同開珍」の貨幣を見ました。私達は学校で日本で最初の貨幣として教わりましたが、しかし今は「富本銭」が日本最初の最初の貨幣ではないかと考えられており、和銅より古く、奈良から発掘されており、実物は奈良県立万葉記念館に現物が展示されているそうです。

しかし、これは出土数が少なく、本当に貨幣として流通したかは疑問視されているのです。

平安時代になると、中国から多量の銅貨が輸入され国内に流通し、大仏の製造にもこれらを使用されたものでした。戦国時代には武田信玄の甲州金が流通して、西日本では銀が、東日本では金が流通し、この交換をしたのが両替商であり、後にこれらの中から銀行へと進んだ者もありました。

江戸時代には藩札が各藩で発行され、それらには偽藩札が作られるようになったとあります。現在の10,000円札の製造コストは30円位だそうで、思ったより安いのには驚きでした。

貨幣が無かった藤原時代以前は、米と布が通貨の代りをしていたとは、考えても面倒な時代だったようです。現在は仮想通貨の時代に入る直前かもしれません。


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by minoru_mogi | 2018-03-30 15:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 3月中旬に、我が家では家内の親戚のいとこ会とやらを千曲市の上山田温泉で行う事となり、少し気が重かったのですが参加しました。私は温泉宿はあまり好みではなく、どの温泉に行っても一度しか湯には入りません。そこで、この折に楽しみとして興味がある上田城蹟と松代城祉を見て来る事にしました。

私は3月初旬に免許証を警察に返上しましたので、家内の運転する車で高速インターを上田で降りて,上田市の中心に近い城跡に向かいました。

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                 上田城二つの櫓と城門


市営の駐車場に車を置き、上田公園の中を行くと、立派な二つの櫓に挟まれた城門が有りました。周りは大きな石を重ねた石垣が目立ちます。

この城門は戦国時代には二度に亘り徳川の大軍を退けた固い守りの門だったのです。しかし、今は昔の物ではなく再建された物であると記してありました。でも、西の櫓は戦国時代そのものが残った物だそうでよく見て来ました。その直ぐ下には大きな井戸があり、それは太郎山の麓に続く抜け穴となっており、篭城の時にはこの抜け道を通り食料が供給されたと書かれてありました。千曲川の崖に面して、西、北、東は堀が部分的に残っています。

この夜は上山田温泉に泊まり、翌日長野市から近い松代町へと向かいました。途中車のナビが不調で地元の車の方に尋ねたところ、松代城まで案内してくれて大変助かりました。

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                   松代城本丸入口


松代城址は千曲川沿いの平地に石垣と濠を備えた平城であったもので、天守閣などはありません。この城は海津城とも呼ばれ、武田・上杉の川中島合戦の主戦場に近いものでした。

そして、後日真田家が関が原合戦後10万石の領主となり封じられました。

城はあまり見るべきものはりませんが、その御殿は今も残り、昔の御殿様式の建物は実に立派であり、その庭園も素晴らしいものでした。真田宝物館と藩校であった文武館を見て回りました。

春の暖かな日に城蹟から白銀の北アルプス・雪の飯縄山・高妻山・戸隠山を望み、遅い信州の春を堪能して来ました。


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by minoru_mogi | 2018-03-16 16:58 | 随想 | Trackback | Comments(0)

私と運転免許証 No693

 先日、在所の警察署に行き免許証の返上をしてきました。ここ数年は自分では運転はせず、専ら家内の運転に任せています。私は子供の頃本家の隣に住んでおり、本家のおばあさんに大変可愛がられた記憶があります。

そして、そのおばあさんが家訓として皆に守らせた事がありました。それは、家族全員が一つの交通機関に乗らないということです。ですから、私の都内での結婚式には、叔父たちが群馬の館林から電車の便を別々にしてきて来てくれたものです。

大学に入り1年生の頃(昭和34年 1959)学内で自動車同好会を設立しようとするグループがあり、参加者を募っていたので、面白そうだと参加してみました。日産自動車に勤めていた先輩が中古の小型トラックを寄贈してくれて、その車の手入れをして車に触っていました。しかし、おばあさんの家訓の事を思い出し1年くらいで止めました。

その後、特に車に乗る必要も無い生活をしており、45歳過ぎまで車を自分で運転するなどとは考えていませんでした。しかし、考えてみると家内が運転している車に乗っていると、危なくて自分がもっと安全な運転をしないといけないと思うと共に、年をとってから車を持たないと不便であるだろうと思うようになり、急いで免許を取ることを考えました。

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自動車練習所に行ったのは48歳になってからです。なかなか上達しなくて40時間近く乗りました。しかもその最中に昭和天皇の崩御があり、1ヶ月以上に亘り練習どころではありません。

練習所に行くと仮免段階でしたが、路肩に乗り上げる始末です。やっと府中で免許証を手にした時は大変嬉しかったものです。

車に乗って富士山麓や八ヶ岳のスカイラインなどをよくはしりました。その後75歳くらいまで乗りましたが、やはり危ない思いをしたこともあり、80歳には完全に止めようと思いました。一度待ち伏せの白バイに呼び止められて注意をされたことが有りましたが、お蔭でゴールドカードのままで綺麗な状態で返却出来ました。やっと安堵できる気持ちになりました。


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by minoru_mogi | 2018-03-03 17:27 | 随想 | Trackback | Comments(0)




 1月中旬の暖かな日に、東海道線の大磯へと行ってきました。その目的は昭和の偉大な政治家吉田茂の住んだ邸宅を訪ねてみました。元の邸宅は先年焼失してしまい、平成294月に再建されたものです。

駅を降りて駅前より神奈中バスに乗り10分程で城山公園前(じょうやま)に下車しました。すると、直ぐ近くの信号の所に行くと、50人くらいの中年男女の団体が皆リュックを背負って信号を変るのを待っています。この人達は皆私と同じ吉田邸へ向かっているのだと思い、それについて行くと、そこには隣接地の元三井の別荘地であった県立城山公園であり、その丘の上の景色の素晴らしい所に着きました。この団体の人達は皆そこで昼食の弁当を開き始めました。そこよりは前山を従えた富士山が雪の姿で出迎えてくれました。

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園内は大変広くその中には横穴式の古墳群も有ります。しかし時間が無く郷土資料館までは見ることが出来ませんでした。

 そこで、急いで本来の目的の吉田茂邸へと向かいました。正門を入ると直ぐにバラ園が有りました。それらは冬の枝の剪定を終え、大変よく手入れがされた多くの種類のバラがありました。更に進むと、兜門がありそこよりは広い芝生の庭に連なっています。

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その傾斜のある庭の低い部分には立派な池があり、綺麗な水が広がっています。池の中には石の塔があり、その先には椰子の木が一本茂っています。日本庭園に椰子の木は大変珍しい物です。

行き届いた石畳の道を本館に向かいます。本館に入ると受付がありますが、周りの柱や廊下は皆むくの節目の無い全くあたらしい綺麗な木造の家屋です。先ず、南に面した応接間を見ると、大きな立派なソファーが三つと、ゆったりとした椅子が5客くらいある、飾りの石作りのマントルピースが備えられた広々とした空間です。ドイツのアデナウアー首相や天皇夫妻(現在の)がここに来ています。

二階へ上がると執務室兼書斎と寝室や生活のための空間がゆったりと取ってありました。

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大きな窓からは海側を見ると、黒松の林の向こうに海が光っています。山側に目を向けると箱根の山並みの上に雪の富士山がどっしりと控えています。この様な良い敷地は貿易商をしていた彼の父親が入手していたものだそうです。元首相はこの地で昭和42年89歳で没したのです。

暖かな冬の陽射しの中、立派な庭と素晴らし日本建築を十二分に楽しみました。


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by minoru_mogi | 2018-01-18 14:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 今読んでいる本が、人類発生後の260万年前から170万年前の頃の内容が書いてあり、東アフリカ大地溝帯に発生して現人類が20万年前に分かれ、10万年前にアフリカよりユーラシア大陸へと移動し、ネアンデルタール人に途中で分化しています。

 この200万年前より80万年前の間の年代の化石と石器がエチオピアのコンソという地域より出土し、エチオピア政府の協力で東大博物館において、特別展「最古の石器とハンドアックス」が催され、18128日まで展示されています。入場料は無料です。

 大江戸線本郷6丁目で下車して、4番出口より出ると、博物館が直ぐに入れる門がありました。建物が直ぐに分り入館すると、そこには常設展の色々な物が展示されています。

蝶の標本、古代の石器、古代土器、動物の剥製、動物や人体の骨格などです。

入口の近くには大森貝塚を発見したウイリアム・モースの発掘した縄文後期の土器・石器・などもまとめて展示してあります。モースは東大に2年居りましたが、その間に大森のみならず、日本の北海道から九州までの各所の発掘をしていたことが分ります。展示品の中には馬の剥製や象の骨の骨格等の展示もありました。

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「特別展」は一番奥の部屋にありました。この部屋に入ると頭骨のレプリカが中空に下げられており、人類の系統進化が判るようにしてあります。それら頭骨は現代人のそれとは大きく異なり、類人猿に近いと思われる形をしていました。

そして、この人類の使用し始めた石器は大変大きくて重そうな物であり、そこには加工されたことが判るものでした。ハンドアックス、クリーパー、スクレーパーなどの形が判別でき、175万年前の頃の石器がかなり沢山の展示がありました。当日は平日にも拘らず、かなりの見学者がおり、女性の方も居りました。

今読んでいる筑摩新書の「人類5000年史」を視覚的に実証する機会として、実にタイミングの良い展示会でした。


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by minoru_mogi | 2018-01-14 13:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

拝島大師 初詣 No688

 毎年、正月3が日の内に何処か有名な神社・仏閣に初詣に行くことを恒例にしていますが、今度は有名な所には殆ど行ってしまい、暮れより何処にしようかと考えていたところ、理髪店で店主と話をしていたら近くに拝島大師があり、その近くの出身なのだと言います。

早速その大師をパソコンで検索してみると、駅より20分位歩かなければなりません。参拝者のために臨時バスが出ているという記事がありますが、さて時刻表が出て来ません。

 今年の正月は孫達3人が我が家に泊まっているので、家内と娘と孫達3人の6人で朝の9時に家を出て電車で拝島へ向かいました。電車の接続がスムースでお寺に近い駅の昭島駅に着くと、駅前のバスターミナルには初詣の人々のために大師への直通臨時バスが待っていました。車内は思わぬ空いた状態で20名くらいの年配者ばかりでした。

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 寺に着くとかなりの人々が来ていて境内の参道には正月23日のみ開かれるダルマ市がずっと並んでいました。快晴の空の下赤いダルマの山が見事です。

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本堂への参拝を済ませ、子供達はダルマを買いました。一人は金色の小さい物を、もう一人は普通の赤い物を買いました。そして、今度は食べ物屋台でチョコバナナを皆食べていました。

 ダルマ市の思い出は、私が大学生時代、府中の在日第五空軍の大佐の奥さんと、従軍牧師の奥さんと共に大きなアメリカ車に乗って深大寺の3月のダルマ市に二人を案内し、通訳を務めたことを思い出しました。天気の良い暖かな日で二人とも大変喜んでくれて、昼食に六本木の立派な中華料理店に行き、3人でテーブルを囲み私はご馳走になりました。

そしてその時食べた中華料理を今でも鮮明に憶えています。それらは卵スープ、春巻き、あんかけ揚げ餃子、白菜のスープ煮、炒飯などでした。これらの中で食べたことの有った物は炒飯だけです。こんな美味しいものが有るのかと本当に感心しました。

その頃の学生は納豆、鯨のカツ、豚汁ライスなどを食べていたのですから当たり前ですね。

今回は思い出深いダルマ市でした。


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by minoru_mogi | 2018-01-05 13:25 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 私は予備校時代と大学1年の頃、青山の外苑前より近くの下宿におり、この国立競技場や東京体育館の周りは大変良く知っています。

千駄ヶ谷駅を降りると、この駅もオリンピックに備えてと思われる改修工事をしていました。体育館の前を通り、丁度、国立競技場の建設現場の良く見える場所に出ました。そこには高いクレーンが何基も立っており、競技場の観客席の壁が延び、席もかなり出来上がっている様子です。しかし、暮れの28日では工事は既に休みとなっています。

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工事現場に沿って南へと歩いて行くと、元の競技場の2倍くらいの感じがするスタジアムが既に完成へと進捗状況は良好のようです。先に進み日本青年館のところに来ましたが、全くその建物はありません。その跡地では大きな基礎工事が進められており、新しい日本青年館がオリンピックまでには立ち上がるのでしょう。


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神宮球場に沿って北上していくと明治記念館前に出ました。そこには神宮外苑の大樹が広々とした広場と共に聳え立っていました。その光景は私が代々木の予備校へ通って頃とほとんど変っていませんでした。そして信濃町駅に出て新宿に戻りました。

オリンピック年の2020年は目前ですが。それを見るためにはやはりそれまで健康を維持して行きたいものです。


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by minoru_mogi | 2017-12-29 19:49 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 40年程も前に、私が働いていた百貨店の紳士服の販売員に,店に近い農家の女性が私と一緒に働いていました。我が家が国分寺より八王子に移った折に、庭の土が粘土であり、植物を植えるには適していないので、畑土が欲しいと思っていたところ、この女性が自分の家の畑土を無償で提供してくれて、それを友人に頼んで家の庭に大量に運び、花を植える庭を作りました。

 その後、彼女が伊豆の下田に旅行で行った折に、爪木崎の日本水仙を2球土産として買って来てくれました。それを庭の日のよく当る場所に埋めると、年々良く花を咲かせて、同時に球根が3年毎に約2倍に増えて行きました。10数年すると時折球根を掘り上げて、込んでいた球根を間隔を空けて植えつけると、どんどん増えて行きます。


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 友人の夫妻が河口湖の近くに別荘を作り、花好きの私に庭に何を植えたらよいかを相談がありました。そこで、手のかからない宿根草と球根の花を推薦し、我が家の日本水仙と西洋ラッパ水仙、ジャーマンアイリスを沢山分けてあげて、その庭に植え込みがされました。数年後、その夫妻が庭中に水仙が咲いている写真を送ってきてくれました。

 さらに、東京都の青少年施設である高尾わくわくビレッジの花壇にも、この日本水仙、西洋ラッパ水仙、ジャーマンアイリスを植え付け、毎年何度もその手入れにクラブのメンバーと通うことになりました。加えて、家の近くのバスの折り返し場の花壇にも入れ、立派な花を毎年咲いてくれています。 

しかし、私がその百貨店の職場を離れて数年後、その女性はガンで亡くなりました。

正月前の12月から咲き始める日本水仙を見る度に、このほのかな甘い香りがする花を、昔のその女性への思い出と重ね合わせています。


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by minoru_mogi | 2017-12-26 19:49 | 随想 | Trackback | Comments(0)