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山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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新渡戸稲造の話を聞いて No572

 1年程前に、新渡戸稲造の英文で書かれ、矢内原忠雄氏訳文の「武士道」を読みましたが、全く難解で半分も良く理解出来なかったのです。明治33年(1900年)にアメリカで出版されたこの本は、時の大統領ルーズベルトが1904年に読み、感銘をして30部を購入して、子供や同僚に配っており、また、彼は日露戦争の仲介役としてポーツマスでの講和に日本のために尽力してくれたのです。
この新渡戸稲造の話がワイズメン仲間の東京むかでクラブの森本晴生氏の「新渡戸稲造と台湾」とのタイトルで、例会卓話で取り上げられました。同氏は現在中野区にある幼稚園から、小、中、高、短大まである新渡戸学園園長として教育界で活躍されています。
氏の祖父は札幌農学校で、稲造と同期生でありこれらの学校を興した人でもあるのです。
 札幌農学校は明治8年(1875)に開設され、稲造は明治9年(1877)に二期生として入学しています。それは旧東京大学より1年早い設立なのです。入学生は120名で、官費生60名と私費生60名でありましたが、卒業までには約半数になってしまうほど学業には厳しかったのです。
新渡戸稲造の話を聞いて No572_d0059661_2210303.jpg

                    旧5000円札の新渡戸稲造
彼は農学校を明治15年(1882)卒業後、東大に入学しましたが、中途退学してアメリカのジョン・ホプキンズ大学に明治17年(1884)入学、さらにドイツのボン大学で農政学を学びました。
明治34年(1901)に同じ岩手県出身の台湾総督後藤新平に頼まれて台湾で殖産局長として3年間務め、台湾の農業振興のために砂糖の原料の蔗糖の増産に務めハワイから優良品種を移入して台湾に広め、大いに生産性を高めて農民の生活の向上に成功しました。
明治39(1906)年には第1高等学校校長に就き、明治42(1907)年拓殖大学第二学監(学長)、大正7年(1918)東京女子大学初代学長、大正8年(1919)国際連盟事務次長、そして1926年に退任して東京文化短大初代学長となり、それが新渡戸学園と成っているのです。
彼が国連事務次長の折に設立した「知的協力委員会」が後のユネスコ設立の基になりました。色々と読み調べてみて、彼がいかに国際人であり、教育に力を尽くしたかが良く判りました。1933年カナダで死去しました。77歳でした。
by minoru_mogi | 2015-07-04 22:12 | 随想 | Trackback | Comments(0)