山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 来年の5月、大阪の人々と旅行会を予定しており、その候補地の一つとして三島市にある2年前に出来たスカイウオークを下調べに行きました。

吊橋といえば、数年前に高野山へ行った折に、新宮市からバスで奈良県の十津川村にある300m程もある吊橋を見て渡ったことあります。この瀬谷の吊橋は熊野川の上流であり十津川となります。60m程下には十津川の清流が流れており、そのコバルトブルーが大変美しい色を発していました。これは川向こうの集落の人達が自分たちが費用の大半を出して作られたと説明がありました。その橋は集落の人達が渡り、車椅子での使用もあります。

渡って行くと中心部では大きく揺れて大変でした。しかも渡橋料は無料でした。それでは少し申し訳ないので、橋の袂にあるティールームで都会の料金並みのコーヒーを楽しみ、少しでも村の経済にプラスになるように努めました。

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 ところが、今回三島市の外れの箱根行きのバスで行く大吊橋三島スカイウオークに行ってみると、橋の対岸には家は全くありません。しかし、その場所から眺める富士山は端正な姿を見渡せ美しく、左に愛鷹山があり、更にその左には南アルプスの赤石岳、悪沢岳が雪で真っ白な山稜が目に入りました。相模湾を見ると三保の松原まで目に入ります。

橋は400mで高さも76mですが、足下には小さな渓流が流れています。確かに大きな吊橋ですが感動するものがあまりありません。偏に富士山を望む展望台だけです。家に帰り調べてみると、これは地元のフジコーという私企業が作ったもので金儲けの手段でした。しかも、橋を往復するだけで1000円も支払うのです。

三島駅から東海バスで行きましたが、バスは1時間に1本であり超満員で立っていると登りカーブで大変でしかも25分以上掛かりました。その中には中国人の4人家族もいましたが席に座り写真ばかり撮っていました。

帰りはバスを三島大社で降り参拝して門前町を歩くと、正午頃でもあったのでうなぎ屋の店先には多くの順番待ちの人達が並んでいました。やはり三島はうなぎが有名でした。

午後は駅前の楽寿園から湧水の流れに沿って源兵衛川を水の苑緑地まで歩き湧水の町三島を充分堪能しました。


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by minoru_mogi | 2017-10-30 14:19 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 秋田市には二度目であり、前回来た折には団体旅行の一人であり、他に寒風山などにも立ち寄った記憶があります。その折は秋田キヤッスルホテルに泊まったので、久保田城のお濠の脇を散策したのを覚えています。秋田市には他にも秋田城跡があり、平安時代から北方の民族に対する備えの館跡であり、その地の秋田城跡歴史資料館もある様子です。

駅より近い久保田城は1602年関が原の戦いの2年後に、常陸54万石より出羽20万石に転封された佐竹藩がこの地に平城を築いたものです。

しかしこの地は丘であり石の城壁はありませんが濠は備わっており、本丸、二の丸、三の丸も備わった広い敷地でです。現在は千秋公園となっており、その名称は佐竹家より秋田市にその土地を寄贈された時に名づけられた様子です。現在は城内は市民のための公会堂や図書館、佐竹資料館などがあり、市民が散策していました。

本丸へと上って行く石段には往時の正門(一の門)が市制100周年折に再建されており、大変立派なものでした。本丸の跡には佐竹義堯(佐竹氏12代藩主 敷地を市に寄贈)の高い銅像があり、そこより更に北に行くと「北隅櫓」が立派な姿を見せています。

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久保田城北隅櫓


その櫓内の展示場と最上階展望階より市内を眺めました。城址をゆっくり3時間近くかけて回り、夕刻ホテルへと向かいました。

このホテルは駅からかなり離れており20分近く歩いてゆきました。そのビジネスホテルには温泉施設があり、宿泊者以外にも一般の人が温泉を楽しむ施設がついていました。

宿泊者は自由に温泉に入れますので、食事前に風呂へゆくと、その湯船の色は薄口醤油のような色をしており、匂いはありませんでした。宿の人に聞くとこのあたりは温泉が出ており、33度くらいで湧出しており、少し加温しているとのことでした。

翌日の東京への新幹線「こまち」は快適で晴れていた空は仙台辺りから曇り、東京に近づくと雨になりました。今回の旅では天候には恵まれない少し残念な旅でした。


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by minoru_mogi | 2017-10-25 19:23 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 青森と秋田へは定年直後の旅行で、19年前に三内丸山、十和田湖、八幡平、鹿角、岩木山、小岩井などを巡りました。しかし、日本海沿いの海岸線は見たことが無かったので、今回、青森から秋田まで五能線に乗ってみました。五能線とは五所川原から能代までを言うことを直前に知りました。

8:10分に青森駅を出た4両編成の列車は、弘前を経て五所川原へと向かいます。その近くになると沿線はりんご畑が続き、収穫前のフジがたわわに枝に生っており、車内からとれそうな近さです。私が知っている長野県のりんご畑は、樹が一直線に並んでおり、そこに針金の支柱が立ち、樹高は4メートルくらいあります。それに比べてこの青森のりんごの樹は低く横に枝を伸ばし、その樹は並んではいません。また。樹は大きなものが多いようです。

この日は朝8時頃まで雨が降っていましたが、9時頃より少し空が見えてきました。五所川原では青空が広がり、車窓からは岩木山が良く見え、その中腹まで黄葉が降りてきています。少し驚いたことには稲がまだ刈り終わってないことで、関東では殆ど刈ってありました。稲の黄金色と岩木山の黄葉は大変美しい景色でした。


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  岩木山

この列車は「しらかみ2号」の急行ですが、単線区間でもあり停車駅も多く、鯵ヶ沢や十二湖駅などにも止まります。車内は乗客も割合に少なく、定年退職旅行と見られる夫妻や台湾からの若い4人連れ、外国人の夫妻、他は3040人ほどの日本人でした。車内で津軽三味線の二人による演奏もありました。団体客が途中で乗り込みどっと降りたのは十二湖駅でした。そこからは白神山地へ行くようです。時間と日にちが有れば是非寄ってみたい場所でした。


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   大荒れの日本海

 電車は海岸線に沿って走りますが、その日は北風が大変強く、海は大荒れであり波高は3~5メートル位はあり、その風の影響から列車は何度も止まりました。沿線には風力発電の塔がかなり沢山見られました。秋田市に近づくと黄金色の田んぼが半分程刈り取りが終わっており、風も治まり時折陽射しのある良い日和となりました。


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by minoru_mogi | 2017-10-19 13:39 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 以前、約20年前にまだ発掘中の三内丸山縄文遺跡を家内と共に見学に訪れたことがあります。その時は発掘された出土品はまだあまり良く分類されておらず、バラックの様な簡易展示場で土器、石器、矢じり、石槍、土偶、などと共にヒスイの飾物などを見ました。

その時はまだ敷地内で多くの中年女性や男性が一箇所で腰をかがめて地面の発掘に携わっていました。そのすぐ横には青森県が進めていた野球場のコンクリートの観客席が半分出来かけていたのです。

しかし、この遺跡がどれ程大切な物かが分り、野球場工事が中止となり、今回みると全くその跡が残っていませんでした。

残念なことに今回訪れた10月11日は雨の寒い日であり、新青森駅を降りるととても寒く、13度であり、タクシーに乗ると暖房が入っておりほっとしたものです。

遺跡に着くと直ぐ前に立派なコンクリートの2階建ての大きな展示館と併設されたレストランがありました。驚いたことに同館の入場料は無料であり、ロッカーの使用料も同じでした。
丁度
1330からボランティアガイドによる説明があるとのことで待っていると、そこに若い女性のガイドさんが現れました。当日は雨でもあり入場者は極めて少なく観光バスは全く止まっていませんでした。


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ボランティアガイドの女性 左

私は色々な所でボランティアガイドの方々の説明を聞いていますが、ほとんどの所で定年リタイア後の人達ばかりでした。今回は20代後半の若い方でラッキーと思っていましたら、一緒にそれを聞く方がやはり若い女性でした。

20年前に来た時と異なっている追加された新しい施設は、土器を集中して捨ててある場所の展示施設と、子供を土器に入れて埋葬した展示室でした。

遺跡の6本の大木の古代モニュメントはいまだその目的は分りませんが、今は日本国内にはこの様な大木は見つからず、ロシアのソチから運んできたものだそうです。その直径は1メートル以上でした。この遺跡は5500年前頃から始まり、4500年前頃にピークとなり、その頃約100戸の竪穴住居があり、500人ほどの住人がいたと推定されています。当時は地球の温暖期であり、気温は今より2~3度高く、樹木も針葉樹ではなく広葉樹が中心であったのです。海水面も今より高く遺跡の近く迄湾が入っていたのでした。

新潟県のヒスイや北海道の黒曜石などが出土しており、海路での交易が盛んだったことが分っています。往時の交易の中心であったのかもしれません。

今後、もう一度行くことはないと思われますが、縄文の時代を良く理解出来る旅でした。


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by minoru_mogi | 2017-10-14 16:27 | 随想 | Trackback | Comments(0)