山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 新渡戸稲造氏は在米中にベルギーの法学者のド・ラヴレー氏から「あなたの国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」との質問に「ありません」と答えた。「宗教なし、どうして道徳教育を授けるのですか?」との問いに、まごついて即答できなかった。そこで、この答えとして「武士道」という英語の本を出版した。明治33年のことである。ちなみに彼はクリスチャンであった。
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 私はこの本についてかなり知っていたが、基の本を読んだことがなかったので、たまたま岩波文庫の矢内原忠雄氏が英語文を翻訳した本を古本屋で見つけて読むことにした。私はこの本に対して武士道が日本人の基本的な道徳規範であるということには、少し飛躍があるのではないかと考えました。そこでこの本を読み進んで行きましたが、とても理解の出来ないことが多く有り、100年前の文章の150ページの本に四苦八苦している現状です。
読み進むと、日本人は神道では多神教であり、仏教も排他的ではなかつた。中国の孔孟の教えも大きく影響しており、儒教も多少の影響を与えたであろう。明治の人々は江戸時代からの士農工商の影響があり、士族の影は濃いものがあったのではなかろうか。
『厳密なる意味においての道徳的教義に関しては孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。君主、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友間における五倫の道は経書が中国から輸入される以前から民族的本能の認めているところであり、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない』と続いている。
結論的にはまだ言えないが、このタイトル武士道とは日本人の精神性を武士道という名を名を借りて、語っている様に思えてならない。
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by minoru_mogi | 2014-08-31 20:57 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 私が鷺草の栽培を始めたのは、群馬の館林に居た父が幾鉢も大切に育てていたいたものを貰い、八王子に持ち帰り育て鉢の数を増やしていったものである。もう40年も前の事であった。
割合と広い庭で日当たりと風通しの良い場所であり、その環境が適したものと見え、毎年3倍くらいに増えていった。あまり沢山出来る様になったので、同じクラブの方々に分けてあげたところ、皆さんが熱心に育ててくれて、3,4年経つとクラブの仲間中に広まっていった。そこで、毎年5月の連休に私の家で芽の植替え作業をするのが定例となった。
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 次に我が家の近くの花好きの方へ配布を始めたところ、中年の女性が主であったが、若い20歳代の園芸が趣味の方などは、私より立派な花を咲かせる人も出てきて、そのセンスの良い鉢と花の出来具合に圧倒されるまでになってきた。皆さんが上手になりそれらを友人に分けて喜ばれているとの話を聞いては、大変嬉しく思っています。
花の嫁ぎ先では松本・甲府・大阪・横浜へも及んでおり、花の時期になるとその育成の成果の花の写真がメールで送られてくるのはとても楽しみである。
今年の花は例年の月遅れのお盆前後に咲くのであるが、少し遅れて最初の花が8月18日に咲き出した。今年は13鉢も作ったのでそれらの鉢のあげる先を見つけるにのに頭を悩ませている。
花の咲き出した鉢を高齢の女性宅に持参して渡し、次の鉢は知り合いの大病院の事務長に友人を介して進呈して、更にもう一鉢は同じ地区に住む友人のところへ、今日届ける約束をしている。暑い日の朝夕の水遣りは大変であるが、涼しそうな花の姿を皆さんが楽しんでくれていると思うと、手抜きを出来ない日々である。
終戦後、群馬の館林で見たような、緑の田んぼの上を飛ぶ鷺の群れの景色を再度見たいものと思っています。
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by minoru_mogi | 2014-08-24 14:37 | 栽培山野草 | Trackback | Comments(0)

日本発掘展 No517

 毎年、江戸東京博物館で催される「発掘された日本列島」の展示会が20周年となり、今年のそれは大規模のものとなりました。いつも楽しみにして行きますが、今年は大変暑い日が多かったので、8月の14日になりやっと曇天から雨になった日に出かけました。
 先ずは旧石器時代15,000年前の日本最大の黒曜石が取れた北海道の白滝遺跡群の13トンもの大量の石器には度肝を抜かれました。これは青森の三内丸山遺跡でも出土しているものです。
次には縄文時代の佐賀県の東名遺跡からは大量のドングリとその貯蔵穴、それを入れる籐篭、このドングリは渋みが少ないそうで、主食として食べられていたのでしょうか。
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               新潟県十日町市出土の火焔土器
土器としては新潟県十日町市の4,500年前の野首遺跡の火焔土器が注目を集めていました。縄文人は現代の我々以上に土器に対して大きな美意識が持っていたのではと、その造形美には舌をまきます。そして、その隣には群馬県の渋川市の同じく4.500年まえの道訓前遺跡からの同じ土器は火焔式土器ほどの装飾性は無いものの、やはり同じような飾り部が、土器の上辺についています。渋川市と十日町市は200kmくらい離れていると思えますが、お互いに影響し合っていたのでしょうか。
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   群馬県渋川市出土の土器
また、弥生時代では吉野ヶ里の展示がありました。
古墳時代の埴輪が今回は特に充実していました。人物埴輪、家型埴輪、動物埴輪等では人物埴輪では武人、ふんどし姿のお相撲さん、神に祈りを捧げる巫女、等が実によく表現されており、家型埴輪では往時の家の形が描写されており、家の屋根には現代の神社に見られる鰹木がのっています。動物では鳥、犬、猪、鹿などの良くできた埴輪が沢山ありました。古代では仏教が日本に来ての初期に、奈良の寺の瓦や、粘土で作った仏像等の展示もありました。
近世の遺跡である行田市の忍藩の江戸時代の古墳に作られた砲術演習場は、友人と共に一昨年に出かけた所でもあり。大変興味を持って見てみました。
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by minoru_mogi | 2014-08-16 14:31 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 先日、高校の旧い友人より思いがけない手紙を貰いました。そこにはたまたま部屋の整理をしていたところ、私から10年程前に手渡された高山植物のスケッチ画を見つけて、懐かしい思いで早速に長い手紙を書いてくれたのです。
彼とは高校1年の時に私の左隣の席にいた荒川君で、大変明るい性格で、何時も飄々としており、勉強も程ほどの人でした。しかし、その頃のことを良く覚えており、私が生物部であったことや、担当の先生の名前等も正確でした。
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 卒業以来、地元に残った彼とは全く交流は無く、10年程前の群馬の館林での同窓会で初めて出会い、会話を楽しんだ記憶があります。最近目を悪くして40日入院したとの事が書かれており、趣味のゴルフや山登りも卒業したとか、少し寂しい気もします。
 その懐かしい内容から楽しい思いがよみがえり、早速に返事の便箋5枚にも及ぶ長い手紙を書きました。そして私の趣味の山歩きの経歴や、黒部川の源流の雲の平と三俣蓮華岳から槍ヶ岳・北鎌尾根のスケッチ画を印刷して同封しました。それは私が最も気力体力に充実していた時に、独りでテントで5泊6日で行ったものでした。
その頃のことを思い返すと、良くぞ危険も顧みずにその様な行動をしたものと思わざるを得ません。まさに若さの暴走というところです。また、私の仕事柄休みが平日なので、いつも一緒に行く友人に恵まれず、ほとんどのアルプスの山も独りで登ったものでした。
 75歳の夏に、山の最後の記念の登山として、北八ヶ岳の縦走を目指していましたが、昨年の夏は暑い日が続き、体力的に無理と思えたので断念したのです。
その様な訳で、76歳の今年の夏の終わり頃にでも、再度チャレンジしてみたいとも考えていますが、気力と体力が自信ありません。
残念なことですが、少しずつ思い出の中に浸る年齢になって来たのを認めざるを得ないようです。
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by minoru_mogi | 2014-08-08 21:23 | 随想 | Trackback | Comments(0)