山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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<   2013年 12月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 先日、大変立派な写真集8部が岩手より私の元に宅急便で届きました。この写真集は植田医師が自費出版されたもので、大槌町の津波災害被害状況のものです。
今年6月に同町へ音楽ボランティアとして、7名のワイズメンバーが中心となって行き、音楽家二人と共に仮設住宅を巡った折に、その医師宅へ立ち寄り色々とお話を聴いたものでした。
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 その写真は津波が正に押し寄せるところから始まり、時々刻々と1分以内ごとに時系列で撮られた写真が並んでおり、私が今までに入手した仙台の河北新報の写真集や、大槌町全体の被害写真集と比べて、はるかにその迫力が違います。
先生の話では、地震の後で患者の往診から帰り、自宅の前で車より降りたところの写真があり、最初の津波の波が来た時には、植田医院の4階の窓から遠くから来る白波を見て、デジカメでそれを撮ったのは奥様であったと言っていました。
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                        押し寄せる大波
そこからは1分以内の刻々と変わる光景を連続して撮っており、波に囲まれたその真ん中からの画像であることが、大迫力になっているのでしょう。同時に、その刻々と変わる様子もメモにしてあり、発生時より医師として活動を始めた18日までの8日間の記録が記してあります。
植田病院に逃げ込んだ人を含めて18人は12日の10:32分に、自衛隊のヘリコプターで一人ずつつりあげられて救出されました。先生もその中の一人でした。話をお聴きした時は淡々と話されたので、それほどに身の危険を感ずるような印象は無かったのですが、この写真を見て、とても平常心では居られなかったのではと思いました。ですが、この写真を見ると冷静そのものです。医師の資質がそうさせているのでしょう。
 多分、この他人では判らないこの貴重な体験を残すべく、この写真集は出版されたものと思います。そして、ボランティアで同町を訪れた方々に贈られたものと思われます。その画集の後ろには各地より支援に訪れたグループの写真があり、我々もその一員であつた事を誇りに思い、一緒に行った方々へと配布の段取りを済ませました。
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by minoru_mogi | 2013-12-27 15:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 松本市内において、松本ワイズメンズクラブ主催による外国人のアジア賞作文コンテストの表彰式と、その後のパーティの場に出席する機会がありました。
この「第15回アジア賞」とは、松本市内の信州大学と松本大学に留学している、私費留学生を対象にし、出題されたタイトルに関しての作文を審査し表彰するものです。今回の応募件数は32名であり、その内の12名の方が受賞され、応募者全員がパーティに招かれました。パーティは松本クラブの25周年記念パーティでもあり、約100名の方々が参加していました。
因みに、そのタイトルとは・・・・・
① 留学によって切り開く私の人生。
② 私の祖国、住んでいる町、出会った人々、学ぶ大学。
③ 人生の豊かさとは? 自分はこう考える。 の3つです。
そしてその応募者の内訳は、中国19人、韓国6人、モンゴル5人、ヴェトナム2人,
台湾2人でした。
そして選考委員には信州大学と松本大学の3人の教師があたりました。
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 表彰式後のパーティで、これらの多くの人達と話が出来ました。また、驚いたことには日本へ来て3ヶ月目で飲食店のアルバイトをしたり、新聞配達をしているということを聞きました。やはり自費留学では大学間の交換留学生でも生活に厳しいようです。
多くの中国からの学生は上海の方が多く、北東部の瀋陽からの2人の男女の学生は、両人とも大変背が高く、男性は190センチ、女性180センチくらいですが、聞くと東北部の人は平均で180センチ位とのことでした。でも南の出身者は日本人と同じ位です。エキゾチックな風貌の女性が2人その中におり、話してみますと中国西部の新疆ウイグル自治区からの出身者でした。彼女らはイスラム教徒であり、日本ではハラルの食品が売られていないので、食事で豚肉を避けるのが大変なのですと言っていました。台湾からの男子学生は、台湾では18歳以上は酒が飲めるのに、ここでは20歳以上と言いながら、ビールを美味しそうに飲んでいました。残念なことにはモンゴルとヴェトナムの方とは話す機会がなかったのは失敗でした。
それでも多くの若者と話が出来て、こちらも若い気分になれてパーティを堪能してきました。
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by minoru_mogi | 2013-12-20 14:38 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 杉並区の郷土博物館で甲州街道の特別展があり、永福町から大宮八幡の傍を通り会場へと歩きました。江戸時代高井戸は甲州街道の内藤新宿の次の二番目の宿であり、半農半宿屋の宿場町で馬15頭が用意されていたそうです。
             
              版画「高井戸の夕立」
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旧甲州街道といえば、数年前に我々の所属するクラブグループ仲間と、内藤新宿の大木戸より諏訪を越えて松本まで幾日にも分けて歩いたことがあります。私は調布・八王子間と上野原・鳥沢間、笹子・甲斐大和の区間を歩きました。笹子駅から笹子峠越えは秋の遅い頃であったと思いますが、30名くらいの仲間とワイワイガヤガヤと楽しく歩きました。
しかし、笹子峠は1086mもの高さがあり、笹子駅の599mと比べると標高差が490mもあります。今では昔の旧道は雑木が茂り、道があまり鮮明でない所もありました。これはまさに登山であり、1時間300mを登る登山の歩きで上りに優に2時間を必要としました。昔の人はこんなに苦しい道を歩いたのかと感心してしまいました。
 この旧甲州街道を幕府のお茶壷道中が京都の宇治から行列を作って毎年来ていたのです。ただのお茶を運ぶ行列が参勤交代や京都からの日光への勅使と同じように、人々が平伏しなくてはならなかったのは全くの驚きです。
この「ズイズイズッコロガシ」の歌には、このお茶壷道中の内容を歌っているとの解説は意外であり、また、この歌が江戸時代から受け継がれているのにはなお感心させられました。
「茶壷に追われてトッピンシャン」とは、茶壷道中が来ると、家々では戸をピシャリと閉めてしまい、それが通り過ぎると「空けたらドンドコショ」とは、通り過ぎたら「勝手に何をしても構わない」との意味であったそうです。街道筋の子供たちが一緒に歌った歌でした。
 最近、歴史好きの友人の影響もあり、色々な歴史的なことに目を向けることが多く、それにより近郊へ外出する機会も増え、日々好奇心をそそられ楽しい時間を健康的に過ごしていることに大変満足しています。
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by minoru_mogi | 2013-12-13 17:14 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 第15代徳川将軍慶喜の生涯を見直す展示会が、慶喜の実弟である徳川昭武(あきたけ)の住んでいた、松戸市の戸定(とじょう)邸で開催されています。この広い2.3haの敷地内には、国定の重要文化財の旧邸宅があり、市の公園として保存されています。
慶喜の写真の趣味は有名で、その画像の中には住んでいた折の京都の二条城の古い写真もあり、中には仕えていた女性たちが一人ひとり写っているものもあります。写真マニアであったようです。
また、彼は絵画を沢山描いており風景や花、模写した油絵もあります。これら絵画の話は過日の日本経済新聞の文化面に大きく出ていました。展示会には慶喜の久能山東照宮博物館所蔵の甲冑一式も展示してあり、その他の使用品が出品されていました。
慶喜の弟昭武は将軍の名代として、1867年にパリ万国博覧会に渋沢栄一等と共に13歳の時に行き、ヨーロッパ各國を訪歴してパリで留学生活を送りました。しかし明治維新によって帰国し、最後の水戸藩主になりましたが、1883年29歳の若さで水戸徳川家の当主を退き、この戸定邸に住みました。その住まいの庭園は素晴らしく、大きな銀杏やくすのきが茂り、其処ここに野鳥の声に満ちているのです。
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庭の紅葉も大方は時期を過ぎていましたが、一部のところではまだ綺麗な透明なもみじが楽しめました。11月としては暖かな一日の歴史散歩で、このあと北小金駅に移動して本土寺を回ってきました。
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by minoru_mogi | 2013-12-07 21:41 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 新店で部長代理で仕事をしていた折に、市内では3店舗で激しい競合をしていたが、その中の国内大手の一社が競争に負けて撤退することとなった。
そこで、私はある作戦を立てて実行に移すことにした。そのD社は紳士服部門に強く、多くの固定客を有していた。しかし、撤退となるとその母店がある東京都心店まで行く客は少ないであろうと考えた。その紳士服部門の中でも受注紳士服(イージーオーダー)の顧客もかなりの客数、おそらくは7千名以上の固定客を有していると推定した。
如何にこの客を我が店の客に引き入れるかが、今後の大きな鍵になると思えた。一般の方はご存知ないかも知れないが、加工服の最大の点は、その基になる型紙が大いに大切なのである。客が気に入った洋服はその型紙に従って作られている。
 我が店の3社の工場のうち1社は同店と同じ工場を使用していた。そこで、このD社の型紙を研究させて、ほとんど同じものが出来ることを確認した。一番手っ取り早いのは、そのD社の嘱託の採寸技術者(カッター)を引き抜くことである。しかし、もし、その技術者がD社の店から当店に来て応対するのではあまりに見え透いている。考えたあげく、その技術者が持っている顧客の名簿を入手して、それに基づいてDMで働きかけることを思いついた。この内容はメーカーの協力もあり一部ではあったが顧客名簿を入手することが出来た。
しかし, その店が閉店してから1年以上、その名簿は敢えて使用することは差し控えた。
1年半くらい経た頃に、それらの客にDMで当店の同じ受注紳士服の案内を出してみた。そしてどのような反応が出るかじっと注目していた。
 すると、そのD店の顧客が我が店に来て注文をしてくれた。その折に「どうしてこの店から案内状がきたのだろうか」と女性の販売員に聞いてきた。その中年の女性販売員は自然に答えた。「この地区の高額者名簿から案内したのです」と即答した。このような問答の内容は実は考えていなかった。しかし、この販売員の答えに客は納得した様子であった。私はその販売員の傍で会話を聞いており、何と機知に富んだ人かと感心した。
この人の趣味は高山植物を見ることであったので、蓼科の1700mに位置する山荘の宿泊券を上げたところ大変喜ばれ、ご主人と行ったむねの話があったが、間もなくご主人の転勤で大分へと転居して行った。記憶に残る販売員であった。
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by minoru_mogi | 2013-12-02 16:01 | 随想 | Trackback | Comments(0)