山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 我が家の母系のルーツは新潟から群馬に来て、馬方などを相手の安酒の飲める店を開き、後に生薬(きぐすり)を商う店になった。また、父の里は代々大きな地主であった。
生薬を扱う中で徐々に薬屋としての形を整えていった。祖母の従兄に船乗りがいて日本郵船で火夫をして、欧州航路に就いていた人がいた。その人がドイツで化学染料が普及している事を祖母に話した。そこで、祖母はその新しい化学染料を北関東で最初に取り扱うことにした。そのため自分から横浜に出かけてそれを仕入れた。祖父はそれに反対であったという。
館林は北関東の桐生・足利・佐野・古河等の繊維産業都市の中心部にあり、その染料は良く売れたという。その頃世界的な大きな事件が起こった。第1次世界大戦である。それによりドイツからの染料が日本に入らなくなってしまつた。おかげで価格が急上昇した。染料に力を入れていた竹森薬局は大きく財をなした。その後も子供・孫の代になっても立派な薬局は続いている。その様な商売を見ていた母も商売で優れた商才を発揮することになった。
 母は商社に勤めていた父と結婚して、香港・広東・上海に滞在していたが、日中事変で中国から海軍の駆逐艦で日本に戻ってきた。そして横浜に住むことになり私が生まれたが、昭和20年に空襲で家は焼けてしまった。幸いなことに母と子供たちは前年に群馬へと疎開していた。その群馬の館林には戦時中に特攻隊の飛行場があったので、米兵が沢山進駐してきた。彼ら米兵を相手に街にキャバレーが出来てパンパンガールが集まってきた。
その時、母は目黒のドレメに洋裁の勉強に行き、注文の洋装店を開いた。キャバレーの女性達には持っていた支那服を譲り、彼女達の関心を引きとめドレスの注文を取った。そのころは2人のお針子さんを雇っていた。その内に米兵が減り、ドレスの注文がなくなってきたので、今度は町の商売で成功している奥様の洋服の注文を取ることになった。小学校の高学年であった私は、その洋服の出来上がりの届けるのが役となった。アイスキャンデー屋の奥さんの所へ届けに行くと、駄賃としてアイスキャンデーをいくつも貰えて嬉しかった記憶がある。
間もなく注文服の時代が終わり既製服の時代に変わってきた。すると母はその店を洋装付属品の店に変えた。大成功のはいえないまでも、私の大学時代まで続き閉店となった。これら私の系譜を振り返ると2人とも時代を見る眼があったことは確かである。
 私自身も45歳を目標に独立することを考えていた。そのためを考えて無尽にも加入してその資金集めも考えていた。考えたのはジュエリーを資産としての宝石でなく、ファッションとして安く売ることであった。宝石は完全でない裏に傷のあるものは一桁価格が安くなる。そこでこれらをリング・ネックレス・イヤリング・タイ止め等に加工して売ることである。
そこで、大学の友人で調査会社の社長と地域スーパーの常務、三峰の調査課長の4人でスリランカに出掛けて、スリランカの宝石商と共に石の原産地を見たり、研磨工場を見て調査した。友人の社長は大量の石を買い、それを日本で加工してみた。かなり有望なことは判ったが、2年ほど研究して私はその計画の推進に反対した。問題はその継続性に問題があった。スポットでは上手くゆく可能性は有ったが、継続しての仕入れは現地の人に任せるしか他は無い。彼らが日本人の趣向は判らない。残念ながらこの計画は実現しないで終わった。その頃からバブル期となり、忙しくてこれらのことは忘れ去られたのである。
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by minoru_mogi | 2012-04-22 20:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 15日の新聞にこの浮島ヶ原の話が出ていました。以前よりその事は知っていましたが、どんなものか分らず見に行ったこともありませんでした。しかし荒川を挟んで浦和市の荒川の河川敷である田島ヶ原にあるものは、かなり前にその花の盛りに見に行ってきました。これは葦の茂る川岸の中に全く自然の姿で咲いており、殆どが赤ばかりで白花はほんの僅かです。そしてかなり広い公園で保護されています。一方、浮間のものはこれと全く異なります。
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 先ずこの地へは地図を見て地下鉄三田線の蓮根駅を降りて歩いて向かいました。ところがこれが以外に遠く40分ほど歩いてやっと荒川の土手にたどり着きました。堤防の上に登って上流へと歩いてゆくと、河川敷は両岸ともゴルフ場になっています。土手の下にはサイクリングロードがあり、自転車が軽快に走っています。
やっと浮間公園に来て土手の外に降りてゆくと都立浮間公園の大きな池の周りに出ました。池にはかきつばたが咲いており、水鳥のバンがおりました。初めて眺めた鳥です。
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公園の池に沿って1周しましたがサクラソウはありません。公園管理室で聞くと公園のフェンスの外にあると教わりました。そこに行くと湿地の所に小公園くらいの土地があり、そこに一面にサクラソウが花壇のように植えつけられてありました。それらは赤の花のみならず白花のものが沢山植えられていました。そこは浮間ヶ原桜草圃場と書かれており、サクラソウの育成管理をしている所でした。
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私としては田島ヶ原の方が遥かに優れた管理状況と思いましたが、ここのサクラソウは江戸時代からの由緒のあるものだそうです。
この公園の直の所に埼京線の浮間船渡という駅があることに気付いていなかったのです。帰りは30分もかからずに新宿に戻り、家に早めに戻りました。
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by minoru_mogi | 2012-04-16 18:56 | 栽培山野草 | Trackback | Comments(0)
 4月7日に実施した上野の谷中・根津・千駄木への歴史散歩は、思いがけず上野の桜の満開時と重なり花見の賑わいの中を歩くという結果になりました。参加者は男7女7の14名で正に中高年グループです。
先ず、日暮里駅を11:00に出発して谷中銀座へと向かいます。ここでは20分のフリータイムで買い物とお弁当を各自購入しました。私は250円のカレーの弁当にメンチカツ150円と100gのポテトサラダ100円を入れて、ボリュームのある弁当が何とタッタの500円でした。他の人達も色々な組み合わせで500円チョットで、箸は1円でした。地区のコミニティーセンターより歴史のある築地塀を見て幸田露伴の五重の塔跡に出ました。そこは谷中の墓地の中で大きな桜の樹が道の両側に花を咲かせており、多くの人出で道の脇の木の下はブルーシートで夜桜見物の場所取りで我々の食事に適した空き地はありません。そこで仕方なく墓地の中に入り空き地で昼食です。そこよりはスカイツリーも望め墓石と桜とタワーの競演です。
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次いで下町風俗資料館の吉田屋を見て大名時計博物館へと歩きました。博物館は元岡山勝山藩(2万1千石)の下屋敷の広い敷地ですが、庭の手入れがあまり良くなく荒れていました。あまり広くない館内には30位の大名時計が展示されていますが、その機械よりも江戸時代の時間の概念の方がずっと興味を惹かれます。その時間は九の刻より始まり八・七・六・五・四までで、なぜか三・二・一の刻は無いのか不思議でなりませんでした。それがやっと説明で判明したのです。
即ち、九の数字は旧い中国ではラッキーナンバーであったそうです。そこでその九に1から6を掛けてゆくと、 9×1=⑨ 9×2=1⑧ 9×3=2⑦ 9×4=3⑥ 9×5=4⑤ 9×6=5④となり、この数字が時を現す刻となっており、1刻約2時間となります。しかも夏と冬では1刻の時間は異なるのです。夏の1刻は2時間40分ですが、冬のそれは1時間52分です。くれ六(むつ)は日暮れ時、明け六つは夜明け時です。おやつの語源は昼の八(やつ)の刻から来ているとの事です。
根津の町に出て小さなティールームで美味しいコーヒーを飲み充実した散歩を14:30に地下鉄前で解散して予定通りの時間に北野駅の戻りました。
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by minoru_mogi | 2012-04-08 16:04 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 卒業した大学の50周年に大学より卒業式に招待されました。そこで、これが同期会の最後の機会と、全国の同級生に働きかけて、卒業生約500人の内103名がこの招待に応じて大学に集いました。この準備には昨年7月頃から幹事会を設立して、各クラブ・ゼミ・同好会・寮仲間等の組織を最大限利用して同期を集めました。同期会案内文の中に、今回が最後となることを謳い、今回参加しないと今後皆に会えないことを強調したことが参加者の多くなった理由と考えられます。
友人の中でも山岳部の友も今は体調が悪くやっと参加した状態で、他の人達も眼が悪くて不参加とか、奥さんの具合が悪くて出られない人もおり、大変残念な方が多かったのも事実です。
卒業式は広いホールで1400名もの卒業生と共に、学長の言葉を聞きました。我々の時代の約3倍もの卒業数で、特に女子学生が32%もいるとの話には隔日のように思われました。我々の時代には短大に女子が10数名で、他は男子短大生でした。学部の女子は10名以内であつたと記憶しています。
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              学長への同期会よりの寄付金贈呈
キャンパスは新しい4階の綺麗な教室棟が3月8日に竣工しており、校門から入ると桜の並木が両側に続き、昔からある赤松の大木がところどころに点在し、一番多い樹は欅の大木です。キャンパスの南側の図書館付近は武蔵野を思わせるクヌギの林があり、その中には国分寺崖線の泉が湧いています。設備も女性向を考えて、カフェテリアのテーブルは4人掛けが標準であり、休憩室は天井の高い白を基調としたゆったりとテーブルが配置された所で、お茶を楽しんでいます。
もう一度この恵まれたキャンパスで学生生活を送りたいという思いがしてきました。しかしそれは無理なので、月に2・3度図書館に出かけて読書をしています。それは学生の頃に図書館は狭くて、椅子が空いていることが少なく十分に利用できなかったとの思いがあるからです。
恵まれた環境の中で今時の学生が我々の時代のようにハングリーな精神を持っているか、少し不安が残りました。
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by minoru_mogi | 2012-04-03 16:10 | 随想 | Trackback | Comments(0)