山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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<   2011年 12月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 12月の末に大学の卒業50周年の打ち合わせ幹事会がり、国分寺の大学に出掛けました。
キャンパス内の7階建て空色のビルの前に、大きな椋(ムク)の木があります。その枝の張り具合は、高さ10mで広がりも10mくらいはあります。その枝に鳩が群がっており20羽を超えるくらいは優にいます。鳩たちは枝の先に乗りしきりに何かを食べています。それは熟して乾いてきたムクの実で、黒くて径7ミリほどの水気が抜けてきている甘い実です。食べているそばから実が地上に落ちるので、下でそれをついばんでいる賢明な鳩もいました。
 打ち合わせ中に、ふと外を見ると、先ほどの椋の木に何やら緑色をした大きな鳥が沢山来て、鳩と同じように実を食べています。暫くするとその鳥の一群が群れて舞い上がりました。その数はやはり20羽は居そうな数です。窓際で良く見るとそれはインコの一群でした。
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そう言えば今から5年ほど前に世田谷の等々力あたりで、東横線に乗っている時に、車外にそのインコの群れを見たことを思い出しました。
都内ならば冬でもかなり暖かそうですが、ここ国分寺は郊外なので冬の温度は零度以下になります。インターネットで調べてみると、ワカケホンセイインコという種類で、体長37~45センチでアフリカ中部や南アジアに生息する種類で、赤い嘴で明るい緑色の体です。
見た時間が夕方の4時近くになっており、急いでデジカメで写真を撮りましたが、陽が当たっていないので体の色は良く出ませんでした。
このキャンパスには広い林があり、クヌギの大木や樫の高い木が沢山あり、そこをねぐらにしている可能性もありそうです。そこには泉が湧いており鳥達には楽園なのかも知れません。
しかし、この寒い冬の中、南の鳥が野生化しているのは温暖化がそれ程に進んで来ているかと思うと、複雑な感じがしました。
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by minoru_mogi | 2011-12-31 16:05 | 動物・昆虫・その他 | Trackback | Comments(0)
 以前体験した仕事中の出来事に触れてみたいと思います。
私が新宿の百貨店に入社した昭和37年(1962)に店はまだ開店しておらず、その秋の11月3日新宿西口に店を開きました。その年の4月から8月までは都内の百貨店2社で売り場実習を受け、私は日本橋S百貨店の紳士既製服係りで実習しました。9月・10月は出来上がった建物で売り場の整備と商品の搬入に追われました。
開店の日は上天気で客がひきもきらず入店して昼の食事も出来ない位で、売れ切れ商品が続失するくらいの何でも良く売れる時代でした。私の紳士既製服係りは主任以下男性が4人、女性の販売員が12名で構成です。
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             10月28日オープンのルミネ入店の客の列               
開店後3ヶ月が経った1月の中旬頃、その大苦情は発生しました。折悪しく30歳代の主任は体調不良で2ヶ月近く入院中であり、係でナンバー2の私が主任の代行役を務めていました。
電話が鳴って交換手から苦情である旨知らされ私が電話に出ました。受話器を取ると怒りをあらわにした大声で苦情の内容を怒鳴り立てて来ました。その内容は礼装服の上下を買い、結婚式に出席している最中に、ズボンのジッパーが壊れて開いてしまったとのことであり、多分和式の披露宴のことであったと思えます。電話では怒りは納まらず最後まで一方的に怒鳴り立て、直ぐにお宅にお伺いしますと言って電話を切りました。
直属の上司が居ないので直ぐに課長にその詳細を伝えました。ところが、その解決のために私がお客様宅へ行くようにと言うのです。しかし、今迄その様な大変な苦情に一度も対応した経験などある筈もありません。お客様宅でどの様に話すか、また対応したらよいか皆目見当も付きません。
やむなく重い足取りでお客様宅の方向へ行き、そのお宅の前まで来てしまいましたが足がすくんで玄関を開けて入る勇気が無く、そのまま通り過ぎてしまいました。やむなくまた戻ってきたものの、またも行過ぎました。3度目も立ち止まったものの入れずにそのまま通り越しました。しかし良く考えてみると、お客様に会わねば解決は出来ません。
一大決心をしてそのお宅の玄関を開けて百貨店から来たことを名のりました。中年の男性が1人でおり「上にあがれ」との命令が飛んできました。和室に上がり座ると同時に何も言わないうちに怒声が頭に落ちてきました。その怒りの声は平身低頭するわが身に際限のないように続くように思えたものです。確かに婚礼の中で恥をかいたのは怒り心頭に発するのは当然です。
10分もそのままで続いたろうと思う頃、少し高い調子から低い調子になってきました。15分もなる頃には怒りが続かなくなり、平静を取り戻したかに見えました。
「お前も大変だな」との一言が発せられました。入社一年にもならない若造が相手であることを認識した様子です。「どんなに恥ずかしかったか判るだろう」とも言い、その後は普通の会話となり電鉄の労組にはお世話になっていることもあり、今回は許すので直ぐに商品を持ち帰り直して持参するよう言われました。
帰りの足取りは軽いものでした。そして、これだけの事が自分で解決できたことに喜びを感じていました。でも、新入社員では本当に大変な役柄でした。
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by minoru_mogi | 2011-12-25 11:29 | 随想 | Trackback | Comments(0)
 大月駅より直ぐ北側に聳える岩殿山は、あまり高い山ではないので何時も高齢者達とハイキングとして行っていました。山頂までは大月駅より1時間半位で登れるのですが、階段ばかりが続き、自分のペースを外すと息切れがする急な登りです。
この山頂からは西に尾根を歩くと3時間程のコースがあり、東の猿橋駅へのコースでは1時間半くらいですが、この道は全く面白くない階段ばかりが続くコースです。
12月13日は雲が殆ど無い快晴で、駅よりの登山者は2・3人のグループが3・4組だけでした。しかし、登りの最後の方に降りてきたグループは20人くらいの大グループで、おそらくは山歩きの会の人達と見えて若い方も多く,確りしたリーダーが付いていて、登りの人に道を譲るルールを守って立止って待ってくれました。11:30頃に山頂に着くと、真っ白の富士山や、三つ峠山や高川山が見えており、山頂で暖かなスープと冷たいおにぎりを食べ30分もの休憩をしました。
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さて、どちらのコースで降りようかと思っていたところ、地図にも現地の案内板にも書いていない北側の下畑倉へと降りるコースの表示がありました。その道を見ると細いものの割合に確りした道が続いています。ここで私の好奇心が働きこの道へ入ってみることにしました。今迄に何度も地図に無い道に入り、何度かは失敗して思わぬ所に出てしまい慌てたこともあります。
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しかし、この道は霜が残っており滑りやすい急降下の道ですが、ステップが切ってあり、大変歩きやすい道であり、40分ほどで集落へと降り立ちました。大月駅までは1時間半をかけて、市内を見て戻りました。駅前のロータリー周りは工事中で駅前の区画整理が進んでおり、綺麗な駅前になりそうです。
ハイキングの山として認定していた山ですが、今の私の山歩きには冬場には最適な山歩きの山に思えてきました。
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by minoru_mogi | 2011-12-17 12:06 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)

皆既月食 No363

 昨12月12日の月食は見事なものであった。とりわけ空が澄んでいたことと、風が無い夜であったので、寒さの中でも十分に時間をかけて月の変化を見ることが出来た。9:30の欠け始めより、11時05分の完全な月食までを時間を追って十分に観察したものだ。そして全部月が隠れて薄赤色を帯びた月の姿は初めて目にするものであった。ところで、我が家では天体の大きな現象には、どれも大切に家族一緒に見たものである。
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 1986年の76年に1回のハレー彗星の接近では、まだ中学生の息子と小学生の娘2人を、3月の夜半4時頃に起して、未だ5度くらいの気温の中を、夜道を20分程も歩いて登り、160mの丘の上より南の方向の彗星を探した。その時は人々の関心も高く、丘には20名近い人達が観察に訪れていた。
その日の彗星の位置はさそり座のしっぽが曲がった有ることを知っていたので、双眼鏡で容易に見つけることができた。しかし、その彗星は楕円形のぼやっとしたもので、尾を引く姿ではなかった。尾のある姿は写真によるもので、露出の長いものでしか見られないものであった。
次は2005年冬のテンペルシュタット彗星の折である。この時は肉眼で実に良く見えて、我が家の庭より北西に見えて家族で良く見たものである。
 流星群では2001年のしし座流星群の出現が大きく予想されて期待を膨らませた。しかしこの年の出現には我が家は皆で山中湖の湖畔に行き、寝袋に寝転び天空を注視した。この時は火球の観察が出来た。ところが、翌年のしし座の流星は前の年よりずっと多く、お隣の年配の夫婦と家内と共に、近くの丘で椅子を持参して楽しんだ。
そのように子供達には自然に対して畏敬の念を持って接することと、好奇心を意識して植え付けてきた積もりである。果たしてそれが備わったかは確かではない。
次の彗星の来た折には、美ヶ原の山本小屋で全天が開けた環境で見たいものと考えているのである。
 ふと、「冬の星座」の歌詞が浮かんだ。「木枯らし途絶えて 冴ゆる空より 地上に降りしく 久すしき光よ もの皆憩える しじまの中に きらめきゆれつつ 星座はめぐる」
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by minoru_mogi | 2011-12-11 11:43 | 随想 | Trackback | Comments(1)

私の就職試験 No362

 今の大学生の就職は全く厳しいものであり、学生諸君には同情を禁じえない。50年前の大学進学率は高卒4人に1人であり、現在の2人に1人の時代に比べて、大学卒業者自体が少なかった。
就職活動をした昭和36年(1975年)は3年後のオリンピック東京大会に向けて景気が上向いてきていた時代である。私はホテル業に就きたいと思いその方向の知識を身に付けるべく授業を取っていた。先ず語学である。英語、フランス語、ドイツ語を勉強したが、第二外国語は二つしか取れないためフランス語は夜学にもぐりで習ったものである。他に経済学ではコレスポンデンス、商業英語等に力を注いだ。
その頃の就職試験は公式には4年の10月1日以後からであった。夏休みも終わりキャンパスへ行くと、友人の何人かが銀行等の内定を貰ったと話していた。しかし私はまだ一度も試験を受けてはいなかったのである。
目的のホテルオークラに大学OBの副社長を会社に訪問して色々と話を聞いてきた。下宿より田舎へ帰りその話をすると、母が全く反対した。理由はホテルには夜間勤務が有るから駄目という。母の希望は電鉄か百貨店であり、景気変動の影響の少ない業種にするようにと言った。
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父の勧めで父の商社の試験も受けるようにと言う。父の同期の人事部長と父とで会い話すと、「もし或る程度の試験成績をとれば採用します」と言う。しかし、その折に父が定年(55才)を過ぎて嘱託となっていたので、「その時はお父さんに退いてもらいます」とも加えた。私としてそれは父を踏み台にして入ると言う事なので、とてもそれは受け入れられない。
そこで、親戚の紹介で東急百貨店の総務部長に会い、試験のことを聞いた折に、丁度、小田急電鉄も百貨店を新宿に計画しており、37年に開業するので受けてみたらと言われた。今度は小田急の総務部長を訪ねた。そして9月末の試験を受けてみた。しかしこれは入社試験の練習と考えていた。
初めての入社試験は代々木で行われたが、その日の朝に腹痛がして行くのを止める事を考えていた。しかし、8時頃に腹が納まったので試験会場へとでかけた。始まる少し前であった。その試験を受けてみると、論文も英語も、経済問題も殆ど解答出来て、経済問題10題の中で1つだけ「ローレンツ曲線について記せ」とあった問題だけが書けなかった。こんなに答えを書ける試験は2度と無いと思いこの会社に入れれば是非とも行こうと心に決めた。
そこで、合格間違いなしと確信して親に連絡を入れると電鉄は好ましいという答えであった。でも、鉄道は面白そうではないので、面接の折に「女性の多い百貨店の方が良いです」と答えた。その結果で百貨店人生を歩むことになるのである。
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by minoru_mogi | 2011-12-01 15:43 | 随想 | Trackback | Comments(0)