アズサ・ボーゲル「ジャパン アズ ナンバーワン」異聞 No514
2014年 07月 24日
この本が日本で出版されたのは1979年のことであり、70万冊を超えるベストセラーの書となったがアメリカでは14万冊の出版であった。しかし、この著者は経済学者ではなく、ハーバード大学出身の社会学者であり、「家族関係と精神衛生の国際比較」がその研究対象であり、後に同大学の教授となった。
そして1958年にこの研究目的で来日して、同じ学者の夫人と1歳の息子と渋谷に2年間に亘り滞在していた。その頃の1ドルは360円であり、奨学金で生計を立てていたが、かなりの生活水準を保てたと記している。彼は1930年生まれであり、日本語と中国語を勉強して、中国語で講義するという能力の持ち主でもあった。その後二度日本に滞在した。
彼がこの本を出版して20年後の2000年3月に元朝日新聞の論説主幹、松山幸雄との会話では、以外な事が語られている。
1970年代になると、日本の対米輸出が急激に伸び、ウォークマン・自動車・造船が爆発的にアメリカの市場に入ってきて、日本の経済発展が顕著になった。その背景について彼は分析をして、それを本にして発表したのである。彼はこの本をアメリカがもう少し頑張らないといけないと思い、アメリカ人に警告を発する意味で書いたものであると言っている。そして、時の駐日大使のライシャワー氏に見せると、大使はこの本は日本では出版しない方が良いと助言したという。
日本人はこの本が翻訳され出版されると、大いに喜びやがて自信過剰になっていった。ライシャワー氏は多分それを察して出版しない方が良いと言ったのではないだろうか。
日本ではその後の1980年代に、バブル時代を経て、その後バブルがはじけて大銀行の破綻や主要証券会社が潰れて、その後20年も元の成長路線にもどることはなかった。
この内容はアズサ・ボーゲルの関係書を読んで知ったものである。
彼は「ジャパン アズ ナンバーワン」とのタイトルにしたが、「ジャパン イズ ナンバーワン」としていないのは、その意味が現れているのであるとも言っている。
事実には思いがけねい事があることを知った。
そして1958年にこの研究目的で来日して、同じ学者の夫人と1歳の息子と渋谷に2年間に亘り滞在していた。その頃の1ドルは360円であり、奨学金で生計を立てていたが、かなりの生活水準を保てたと記している。彼は1930年生まれであり、日本語と中国語を勉強して、中国語で講義するという能力の持ち主でもあった。その後二度日本に滞在した。
彼がこの本を出版して20年後の2000年3月に元朝日新聞の論説主幹、松山幸雄との会話では、以外な事が語られている。
1970年代になると、日本の対米輸出が急激に伸び、ウォークマン・自動車・造船が爆発的にアメリカの市場に入ってきて、日本の経済発展が顕著になった。その背景について彼は分析をして、それを本にして発表したのである。彼はこの本をアメリカがもう少し頑張らないといけないと思い、アメリカ人に警告を発する意味で書いたものであると言っている。そして、時の駐日大使のライシャワー氏に見せると、大使はこの本は日本では出版しない方が良いと助言したという。
日本人はこの本が翻訳され出版されると、大いに喜びやがて自信過剰になっていった。ライシャワー氏は多分それを察して出版しない方が良いと言ったのではないだろうか。
日本ではその後の1980年代に、バブル時代を経て、その後バブルがはじけて大銀行の破綻や主要証券会社が潰れて、その後20年も元の成長路線にもどることはなかった。
この内容はアズサ・ボーゲルの関係書を読んで知ったものである。
彼は「ジャパン アズ ナンバーワン」とのタイトルにしたが、「ジャパン イズ ナンバーワン」としていないのは、その意味が現れているのであるとも言っている。
事実には思いがけねい事があることを知った。
by minoru_mogi
| 2014-07-24 20:22
| 随想
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