山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 私には子供の頃の写真は殆ど有りません。戦時中だったので皆余裕がなく、とても写真など撮って貰えませんでした。残されたただ1枚といえば、父と一緒に横浜の桜木町近くの橋の上で撮られたもので、下駄履きに半ズボン戦闘帽をかぶっている5歳頃のものです。

 そこで子供の頃の思い出が残っていないかと思い、横浜の戦時中の繁華街を訪ねてみました。桜木町に下車して野毛山の市営動物園へと先ずは向かいます。

野毛山公園への道を行き、野毛坂にかかると、私と同じくらいの男性2人が前を行き動物園を目指しています。しかし、その1人が急坂に耐えられず直ぐに休みとなります。とても動物園までの坂を上れそうではありませんでした。

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公園に沿って上がって行くと、睡蓮が咲く日本庭園がありました。水の上にはシオカラトンボが舞っています。更に上って行くと動物園の入口に着きました。財布を出して入園料はと見ると一般の人園が無料でした。

動物園は今は象と白熊は居らず、キリンやシマウマ、ライオン、トラなどがいますが、大型獣でも狭い獣舎で可哀想になりました。割合と広い園であり、大木が多いのですがアップダウンがありなかなか大変です。入園者は5歳以下の子供ずれやベビーカーの若い夫妻が多く、次に多いのは若いアベックの人達でした。園を出てから水道山の見晴らしポイントへ行って見ましたが、そこからはブリッジやタワー、パシフィコ、ランドマークタワーは良く見えますが、海は全く見えません。

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 そこからは今度は南に山を降りて30分くらい歩いて伊勢崎町へ出てみました。しかし、街は賑やかで人通りも沢山有りますが、あまり綺麗でなく昔のイメージは有りませんでした。

この街中を歩いていると、昔子供時代に来た松坂屋が昔のイメージどおりあり、今は百貨店では無く色々な店が入っているテナントビルとなっていました。また、通りの南側には有隣堂書店があり、この2店のみが戦時中からの生き残りのものでした。

結局、伊勢崎町の記憶は確かでしたが、野毛の町と動物園の記憶は出てきませんでした。

そして、入学前に遊んだ友達の顔をうっすらと思い起こしました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-06 16:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

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 この映画には私は大変関心があり、826日の封切り後7日目に府中に行き見てきました。最初に感想を述べると、この映画はその歴史的な背景を良く理解していないと、十分には楽しめないと思います。

この天下分け目の1600915日の1日の戦いは、秀吉が伏見城で生涯を終えたことに依り、後を継ぐ秀吉の子供である秀頼が幼少であり、その跡目を誰が継ぐかに懸かっていました。秀吉の朝鮮出兵は1592年からであり(文禄の役、慶長の役)1598年秀吉の死により兵を引きました。

この関が原の戦いはその2年後に全国の大名が参戦して戦われた、正に天下分け目の徳川家康と石田三成の戦いであったのです。私見では、それらを理解して映画を見るには、もう一度映画館に足を運ばないと、とても十分に理解出来るものではありません。

 映画の中では家康役の役所広司が実に上手い演技で目立っています。石田三成役の岡田准一は西軍の総大将として、他の西軍の将の支持が十分ではなく、戦いの中で小早川の寝返りと、毛利藩の軍勢が戦いを静観、さらには島津藩の動静等、絶対的な支持の無さが戦を決めました。

戦いの場面はかなり長く、多分、島津藩の敵中突破が大々的に出るかと思いましたが、それには全く触れていませんでした。西軍総大将の石田三成は各将の参戦を戦いの中で必死に呼掛けますが、各将はこれに呼応せず、西軍の83,200の兵と東軍の89,000が互角には戦えず、東軍の勝利に終わったのです。

 石田三成は自国の近江に逃げ延びますが、自害はせずに最後は自首して、京都の三条河原で処刑されます。映画の中では忍びの者の挿話が出てきますが、原作の司馬遼太郎の話の中に有るのでしょうか。私としては、あまり意味の無い挿話に思えます。

見た後の感想としては、確かに大作であることは認めますが、クライマックスを感じる場面はありませんでした。さて何点を点けたら良いのでしょうか。

再度、この映画を見直して、初めて点数を付けたいと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-01 21:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 雨続きで病院に行くことだけが予定の日々に嫌気がさして、何か前向きになることはないか考えました。色々考えた中で、新宿の歌声喫茶「ともしび」に2年振りにでも行けば気分も少しは晴れるのではないかと、曇りの17日の午後に出掛けてみました。

 我々の若かった頃の「ともしび」は西武新宿駅の前に大きな店を持ち、1830歳位の若者男女で何時も混雑していました。

それは昭和30年(1955年)頃から10年間くらいがピークで、昭和50年くらいまで続いていました。しかし、1970年頃からカラオケが出現すると、たちまち忘れ去られてしまいました。

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             ピアノの前で歌う客の人々

しかし、今また店こそ小さくなったものの、また大いに人気を博しています。しかしその客層はと見てみると、昔の客層とは全く違い、7080代の人々が対象であり、店の立地はJR新宿駅に近いビルの6階であり、店の収容力は65名くらいでした。2時より昼のステージが始まりますが、時間前に席は満席でした。入場料金代1,600円を払い、私は独りであったので一番前の席に座ることになりました。

店内を見回すと男性11名、とその多くが80歳近い方々です。女性はグループで来ている人が多く、55名くらいで70代と見える方々です。

開演してピアノが伴奏を弾きだすと、部屋の皆が一斉に歌いだしました。最初の歌は「青い山脈」でした。私の席には2人の男性と1人の女性で、女性は今日初めて来たと言っていました。男性はたまたま二人とも77歳でした。私のほうが2歳年配です。歌が始まるとその二人の歌声は素晴らしいものでした。声量もあり歌も上手いのです。

そこで月に幾日くらい来ていますかと聞いたところ、ほとんど店の開いている日は毎日との返事でした。しかも八王子の高尾からとのことでした。

私も知らない曲が少しありましたが、ほとんどは大声で歌ってきました。少しはストレスの発散が出来た気がします。

1時間程楽しんでから「アンパンマンの歌」で席を立ち早めに退席することにしました。

老人になって大切なものは刺激です。それに最近は感じ無くなってきているのです。何とかして刺激を追及してゆきたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-08-17 20:30 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 夕刻のNHKテレビで「山へ!to the mountains 展」が世田谷文学館で7月15日より9月18日まで行われていることを知り、その案内の中には深田久弥や田部井淳子の名があったので是非見てみようと考えました。

この夏は晴れの日ばかりで、梅雨明けになったと言っても実感が全くありません。その場所は京王線の芦花公園駅の近くだと判りましたが、私はまだ一度もこの駅には降りたことはありません。
出かけた日は暑い日でしたが、まだ昼にはかなり時間があったので、南口に下りて目的地まで住宅地を7分くらい行くと、木立の中にある文学館へと着きました。
入場料が以外に高く、65歳以上でも600円でした。

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 館内に入るとこの目的の特別展は2階で開催されていました。最初に目に入ってきたのは漫画の山の物語「週間ヤングジャンプ」に2007年から2011年に連載された新田次郎の「弧高の人」の原案を漫画化した、坂本眞一の詳細な原画でした。この漫画は文化庁メディア芸術祭漫画部門で優秀賞となったものでした。

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更に進むと明治時代の小島烏水のウエストンと交流があった登山家の山の書とその原稿がありました。次には深田久弥の我々の若い時代の原稿や、山の写真がゆったりと展示されています。他には田辺和雄(植物学者、探検家)、や田部井淳子(登山家)、石川直樹(写真家・探検家)、の原稿や書籍の展示もありました。しかし、私は山の写真がもっと沢山展示してあるものと期待していたので、少し残念な気もしました。他に、1階の展示場では他の物が展示されていましたが、全く関心が無く早々に出て来ました。

 館内には素敵なコーヒーショップがあり、軽食が提供されるのでピラフとアイスコーヒーを飲み、ゆったりと涼む時間がとれました。

この町は立派な住宅が多く、また周りには大きなマンションが沢山有り、思った以上に良い住宅地でした。


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# by minoru_mogi | 2017-07-26 11:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ここ暫くは日中温度が高いので、外出を控えていましたが退屈になり、やっと好奇心のある所へ行ってみようと、大森貝塚へ出向きました。

この大森貝塚は米国人のモース博士が来日して、東大の教授として明治10年に発見して、縄文時代という言葉が使用される基になったものです。モースがこの貝塚から発掘された土器を英語で「code marked pottery」(縄の跡がある焼き物)としたのを、日本の学者が縄文(紋)と訳したことによります。

因みに、弥生時代の弥生は、東大近くの弥生町から出土した焼物が作られた年代につけた名でした。兎も角、日本の古代史はここから発展したと言っても良いでしょう。


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 ここは今は「大森貝塚遺跡庭園」とされており、大森駅より10分に位置しています。公園はあまり好奇心をくすぐる物も無く普通の公園に貝塚があるばかりです。

大森駅前で食事時にグーグルでその地の地図を見ていると、すぐ近くに品川歴史館があることが判り、貝塚を先に見てから歴史館へと炎天下を更に10分ほど歩いて、立派な塀に囲まれた歴史館に着きました。入場料は100円ですが70歳以上は無料でした。

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中に入ると目の前に立派な日本庭園が広がります。私はこちらを最初に見学することにしました。芝は素晴らしく綺麗に保たれてますが、残念なことにその池には水が無く、小さな流れがあるはずでしたが干上がっていました。節水中と思えました。

また、この建物には日本家屋の書院も接続されており、庭の中には茶室まであります。その茶室の説明看板を読むと、ここには安田善助邸があり多くの財界人がこの茶室に招かれていたそうです。

 展示室に入ると江戸時代の品川宿のジオラマが目に入りました。年表を見ていると大きな甕があります。また品川の海に関するのり船や、品川本陣の模型、御殿山、品川台場、東海寺の説明等、なかなか見ごたえのあるものばかりでした。

帰路は歴史館の近くからバスで大井町駅に出て家へと帰りました。


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# by minoru_mogi | 2017-07-18 20:10 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、書店で本を見ていると、「定年後の最大の問題は何か知っていますか・・・健康?、お金?、いいえ孤独です」というコピーが目に飛び込んできました。そこで早速本を手に取り、50歳からの生き方、終わり方とあるこの書を買って、夜から直ぐに読み始めました。

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 私は定年の60歳でキッパリと会社を辞め、残った時間を社会奉仕と山登りに使いたいと考えました。これには理由があり、私が28歳頃に急性腎炎で大学病院に40日間入院した折に、医師より「貴方は短命でしょう」と言われたことが大きく影響しています。

また55歳くらいより定年後のことを考えて、青少年の活動を支援する世界的なクラブであるワイズメンズクラブ(Y's Men's Club) というYMCAのOB団体に参加して、月に2回の例会と他の活動に携わりました。

 60才からは直ぐに年金を受け取り、まだ健康の確かなうちに好きな山登りに情熱をかけて甲斐駒、八ヶ岳、蓼科山、焼岳、仙丈ケ岳、や日帰りできる山も昔の会社の山仲間とか、親しい友人と2人とか、時には単独行で出かけました。

また、会社時代には無理であった海外旅行には退職2年目よりアメリカ、スイス、東欧、トルコ、タイ、オーストラリア、スリランカ、ベトナム等、その地の友人を訪ねて楽しい旅をしました。また、学生時代に語学で力を入れた英語とドイツ語を駆使してアメリカ、オーストラリア、スイスやオーストリアでは自由に行動が出来、家内と共に良い時間が持てました。

また、日常的には好きな園芸の知識を活かしボランティアで、家の近くのバスターミナルのロータリーの周りに花々を植え、高尾にある青少年施設のわくわくビレッジの花壇にはシーズンごとに花を植え替えて美しく保っています。

 予想外に現在の79歳まで健康な、かなり充実した人生を過ごしてきました。しかし、最近になってから少しその生活に充実感が足らない時間を時折感じるようになって来ており、もう一度人生を考え直してみようかと思っています。

 その第一は原因は体力の低下です。好きな低山歩きも登りでは息切れが激しく、下りでは膝が1時間程しか耐えられなくなってきており、今年はまだ1度しか山に出かけていません。月に1度は出身大学の図書館にゆき読書をしていましたが、これも2ヶ月に1度位になってきました。また、各種の博物館巡りもなかなか重い腰が上がらなくなりました。気力の衰えが一番の原因なのです。

 そこで、気分を一新しようと秋からの活動計画を考えています。このブログに自分の計画を書けば、確実にやらざるを得ないだろうと思うからです。この秋の第一の計画は10月に青森県の三内丸山遺跡を再度見に行くことです。

ここは定年直後、会社より記念に貰った家内と二人の国内旅行券を使い、まだ発掘されて間もない遺跡に行き、仮設の資料館や大きな栗の木の6本柱のモニュメントを見てきましたが、それらがまた私を呼んでいます。
また、平成11年3月の東北大地震の被害地の南三陸町に同年9月にボランティアで
行き、12年6月に音楽ボランティアの1員として石巻市大槌町に行きました。それらの地に是非とも行き、三陸鉄道に乗り、その復興状況を自分の目で見たいと思います。

昨今は周りの人も高齢となり、交流の回数が少なくなってきましたが、私としては残りの人生を「孤独ではない」人生を目指してゆきたいと考えています。


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# by minoru_mogi | 2017-07-13 16:26 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ここ4年間に亘って工事が進んできた両市の駅前再開発が、府中市側に於いてはほぼ完成して、この秋から15階建ての大型ビルのオープンが発表されました。一昨日府中のバスターミナルを利用したところ、そのターミナルは2倍くらいに拡大され、大変ゆったりとしたものになりました。

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                    府中駅前再開発ビル

この再開発ビルは地上15階の大型ビルで、商業テナントや140戸の共同住宅も高層階に入る予定です。これで府中市の駅前開発は全部終了となります。

 一方、国分寺市北口の駅前再開発は、高さ36階建てビルと35階建てビルの西棟と東棟に別れて2棟のビルが駅の北口に立ち上がっており、その竣工は平成30年1月末の予定です。上層階には共同住宅が多く用意され、住友不動産から売り出されます。

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       国分寺北口再開発ビル 西棟


現在、ビルは最上階まで立ち上がり、外装・内装へと移っており,
その2棟のビルの
西棟には三越伊勢丹の商業施設が14階に入る予定になっています。

しかし、府中の伊勢丹が近年に閉鎖される話しが出ていることを考えると、どの様な形態で出店されるかは不明です。しかし、この再開発に依り駅前は大きく変化するでしょう。昭和30年代に言われたように、中央線の3寺と言われた賑やかさが戻るでしょうか。

国分寺北口のバス停もすでに本来の駅より離れた広いターミナル移設されておりました。

この秋から来春にかけて両市の顔が揃い、大変な楽しみです。


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# by minoru_mogi | 2017-07-01 19:24 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昨年11月30日に御岳駅よりケーブルカーで山上駅へ行き、日の出山(903m)へ行ったのが最後で、約7ヶ月山歩きをしていません。今回低山歩きとはいえ全く足には自信がありませんでしたが、ここで山歩きを終わりとはしたくないので、兎も角行けるところまで行こうとの気持ちで、日陰の多い林道を行く影信山(727m)に出かけてみました。

6月17日の土曜日は天候は快晴であり、高尾駅のバス停には多くの登山者で、小仏行きのバスは臨時便も出る状況です。

 小仏のバス停よりはゆっくりと10:00に出発しました。その足取りは重くゆっくりとしか歩けません。出発してより20分も山道を歩くと息切れが激しく、木の切り株に腰を下ろして最初の休憩です。次は15分ほどでまた休みになりました。

とても足が重く気持ちでは頑張っているのですが、息が絶え絶えです。立ち休みを入れて20回くらい休んで、やっと小仏峠から影信山の尾根に出ました。今日の出発前の予定では、この藪沢の中ほどまで登って途中で引き返すことになるだろうと自身では考えていました。

 標高727mの影信山は高尾山より128m高いのと、バス停が280mなので447m登ることになります。それに比べると高尾山は高尾山口駅で標高が200mなので、頂上の599までは399m登ります。

 さて、頂上へはあと30m程の急傾斜を登らねばなりません。私の足ではこの30mは全く大変なのと、今日の登山者の多さを考えると、山頂は7080人位で混雑していることが考えられるので、山頂を諦めました。そして山道の脇の斜面に腰を下ろして、昼食のオニギリを食べ始めました。丁度昼には10分前でした。

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     目の前の鉄塔がある山が城山です、遠くに見える山は大山です


景色の良い尾根筋なので開けている南を見ると高尾の城山(670m)がよく見え、そのずっと先には丹沢の大山(1253m)が良く見えています。山の景色をおかずにオニギリを3個食べました。

 帰り道は今来た薮沢林道を止めて、道の確りした小仏峠への道を歩く事にして、小仏バス停に13:10分に着くと、バスが出たばかりで私の前を歩いていた人は間に合ったようで誰も居ませんでした。その山道の脇には猫の好きなマタタビの蔓が白いペンキが付いたような葉を茂らせていました。

 今日は半年振りの山歩きであったのですが、何とか登れたのでホッとして、少し自信が戻ってきました。近々にまた早めに山に出かけ、更に自信をつけたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-06-19 19:54 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)

 今年の春で中学3年の同じ組の人々が80歳を迎えています。この同窓会は70歳に近づいてから急に活発になりました。そして現在では春と秋に二度行われることになり、一度は学校の有った群馬の館林で行い、もう一度は都内で行われます。

その都内で行われる1回は主に私が1人で企画実行しており、今年の春が4回目で524日に行われました。

館林の中学校は合併が行われる前であり、町の人口は3万人くらいで中学校は1校のみでしたが、クラスの数は1学年9クラスもありました。そして1クラスは大人数で59名いました。ですから顔を覚えていても名前を思い出せる人は少なく、ニックネームを聞いて思い出す人が多くいました。

 東京での会は女性のかなり多くの人が嫁いで東京に出ており、これらの会は新宿「青葉」(台湾料理)、代々木「ガウディ・ガウディ」(スペイン料理)、横浜「スカンディア」(北欧料理)と続き今回の再度の新宿「青葉」となりました。そこで、皆80歳になる今回は、これが最後になる可能性があるので、兎に角、印象に残る同窓会にしようと色々と知恵を絞りました。

毎回、毎回食事後はそれぞれ自由行動で中華街や氷川丸の見学場所に行くのですが、皆で一緒に行く所を決めることにしました。

5月の中旬ですと花はさつきの季節です。そこで、今回の行く先は駒込の大名庭園「六義園」としました。ここは東京都の特別名勝とされており、その入場者も年間で都内公園では最高の40万人近くの人が訪れています。その説明員には私の親しい友人で、同園のボランティアガイドを長く務めた方に是非にとお願いしました。

 当日は午前10時に駒込駅の改札前に集合です。高崎からの男性が来て時間内に15名が集合しました。駅前で今日の案内者の方に園内案内と館林の関係の説明をして貰いました。

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今回、この六義園としたのには大きな意味が有ったのです。

江戸時代、館林藩12万石の藩主、徳川吉宗の小姓、柳澤吉保は出世を重ね大名になりました。彼は館林藩の勘定方の息子であったのでした。その吉保が6年をかけて作った大名庭園が六義園なのです。邸内の詳細な説明と館林藩の歴代の藩主の名も資料として作っておいてくれました。

驚いたことにはその藩主の中に山形より移封された秋元氏と共に、山形より館林に移ってきたと言っていた末裔の人が我々の中に居たということです。

園内を巡り、藤代峠の35メートルの山から、池と出島を見下ろして、1時間半もの楽しい時間となりました。

駒込より山手線に乗ると、新橋での人身事故で30分も駅で停車のハプニングです。新宿のレストランに着いたのは1時半過ぎで、それから2時間半、17人の皆で話が弾みました。

参加者は男4人女11人と女性パワーが勝りました。一応、この秋は館林で同窓会を行うということに決めました。東京の幹事はそろそろ引退です。


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# by minoru_mogi | 2017-06-07 13:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ワイズメンズクラブの大阪のクラブとの交流会が名古屋で催され、52021には市内の観光をしてきました。

その中で名古屋城見学があったのですが、お城よりも本丸御殿が公開されており、お城はさておき新築の御殿を見てきました。ここ数年に亘って建築が進められていたお城の前にある御殿は、来年春に完成する予定ですが、大半の部分が出来上がっており、その400年前と同じ内部の各部屋を見て回りました。

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            本丸御殿正面とボランティアガイド

玄関正面の作りは唐様の屋根が檜皮葺の美しい曲線をなしており、そこから大廊下を通り、障壁画の連なる表書院となります。そこには復元された虎の絵が有り、これは本物は戦時中も疎開してあったもので、今も実物が存在しているものを複写したものだそうです。

この建物に使用されている木は、皆全く節の無い立派な木曽ヒノキであり、金具は細かい細工のある釘隠しが美しく、素晴らしい金具類です。

また、この名古屋城と本丸御殿は1945年(昭和20年)の大空襲で焼け落ちてしまい、戦後鉄筋コンクリートとで城のみ再建されたものでした。しかし年数を経ており、新しく作り直す話しが出ているそうです。

その時には本来の木造で作り直そうと、今の河村市長が計画しており、予定価格505億円の費用を50億円は市民からの寄付を予定しており、他は入城料で回収する計画です。目標は2020年とありました。

次に徳川美術館に行きました。そこには「武具と刀剣」の特別展であり、尾張徳川家の甲冑や徳川家が所有する名刀等24点もの品がゆったりと展示されていました。それらを見に来た人達の中に、若い2030位の女性が1人で来ている人が沢山います。若い女性が刀剣に興味を持っているとは思えなかったのですが、現実にその姿を見ると、自分の考えが遅れているのかと思はざるを得ない気持ちになりました。時代は変るものだと実感しました。


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# by minoru_mogi | 2017-05-26 14:32 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昨日、何時もの散歩を延ばして2時間にわたって八王子みなみ野の綺麗な公園と住宅地内を歩きました。このみなみ野は街全体が計画的に3万人が住む町として計画された街で、電柱は地下埋設であり、住宅地は最低80坪位であり100坪以上の広い住宅が沢山あります。その庭には石楠花の沢山の種類が咲くお宅や、バラの垣根に囲まれた家、各種の花が庭にあふれているなど実に見事です。

その中学校の南側を歩いていると、サクランボの種が沢山路上に落ちています。ふと見上げると直径78ミリの真っ赤な実が、鈴なりについているではありませんか。その桜並木は25本前後街路樹として続いているのです。少し行くと小学生の男の子が34人おり、1人が樹に登って実を採っていました。私は樹に登る訳にもゆかず、その男の子に声を掛けて採った実を少し分けて貰いました。



すると、
3個ほどの実を手渡してくれたのです。それを口に入れてみると思いのほか甘く、少し酸味があるものと思っていましたが、甘さは少ないものの正に甘いサクランボです。

よくぞ鳥達に全部食べられないで、これほど実をつけていたと思い、今度は鳥に注意してみると、いました、ムクドリの一団がひと気の無いところでギャーギャー集まっていました。

サクランボといえばトルコでの思い出があります。10年程前にトルコ国内を巡る旅行に参加したことが有ります。季節は丁度5月末のことでした。トルコは夏が乾季であり、麦はもう黄色になり、その脇には真っ赤なケシが咲いていました。

イスタンブールの高級ホテルで、朝食の折に果物は自由に取り放題です。トルコは果物は豊富でその時出ていたものはスイカ・イチゴ・オレンジ・スモモ・モモ・サクランボ・桑の実などです。

私は早速サクランボを取りに行きました。そして2度目もそうしました。しかし、私以外にはサクランボをとる人は誰もいません。そして、次に珍しい白い桑の実を食べてみました。大きくて甘い実でした。翌日、トルコの田舎へ行った折にはサクランボ100%果汁の缶ジュースが日本円で100円位でした。

バスで国内を回って行き、湖の畔で休憩をしました。その湖畔の並木はサクランボの樹でした。その枝には大きなサクランボがいっぱい付いています。手を伸ばして実を採って食べると、ホテルで食べたものと殆ど同じ味です。

トルコではサクランボなどは全く普通の街路樹の一つであったのでした。


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# by minoru_mogi | 2017-05-18 14:25 | 随想 | Trackback | Comments(0)

国宝松江城 No655

 私は今までにかなり沢山の城や城跡を見てきたものです。西の方からそれらを並べて見ると、佐賀城(城址・佐賀)、福山城(広島)、松江城(島根)、姫路城(兵庫)、大阪城(大阪府)、二条城(城址・京都)、和歌山城(和歌山)、大和郡山城(城跡・奈良)、彦根城(滋賀)、安土城(城址・滋賀),長浜城(滋賀)、名古屋城(名古屋)、高山城(城址・岐阜)、浜松城(静岡)、駿府城(城址・静岡)、甲府城(城址・山梨)、松本城(長野)、小田原城(神奈川)、八王子城(城址・東京)、千代田城(城址・東京)、仙台城(城址・宮城)などです。

 しかし、戦国時代からの国宝のものは、松江城、姫路城、彦根城、松本城と、まだ行ったことの無い犬山城です。あとの城はほとんど昔のものが残っておらず、戦後にコンクリートで再現されたものばかりです。

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今回の島根旅行の折に、この松江城をゆっくりと見学してきました。それは宍道湖に近く、掘割に囲まれた小高い丘の上に有ります。松江駅に午後2時に着いて駅前の観光案内所の行くと、お城へ行くのならレイクラインという市内観光地循環のバスが20分間隔で出ており、それを利用してくださいと言われました。大手町のバス停で降りて城へと向かうと、濠が囲んでいます。城内に入ると大きな樹が目に付きます。杉の木などは400年を経たものと思える高さと太さです。同じく松も大樹ばかりです。

城の小高いところへ登って行くと、城全体が見渡せるところに出ました。城全体はさほど大きくなく、松本城と同じ位の大きさです。しかし城内の展示物は豊富で、甲冑などは20体以上は並んでおり、また天主台よりの展望も素晴らしく、西側には宍道湖が広がります。

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城から出て城内を巡っていると、城内の雰囲気にはそぐわない木造二階建ての大きな西洋館が目につきました。その建物の色は薄い緑色の塗られていました。しかも神社の隣にあるのです。

これは何かと思い近くで作業をしていた人に聞くと、それは明治天皇が来る予定で立てた建物であり、日露戦争が始まったので、急遽天皇の松江巡幸は中止になってしまったのですとの説明でした。その名は興雲閣というのだそうです。いまは展示会場となっています。

残念なことに時間が足りないのでこの建物は公開されていたのですが見る時間は有りませんでした。

帰りの市営レイクラインバスに乗り、小泉八雲邸を車窓に見て宍道湖の畔に来ると、丁度夕日が西の湖の上に落ちかかり、雲が多い中でしたが水面に陽かげが見えて、有名な湖の夕日のシーンを見ることが出来ました。

町の印象は大変綺麗な町で、豊かな街路樹に彩られ、水に囲まれた静かな街でした。


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# by minoru_mogi | 2017-05-02 15:16 | 随想 | Trackback | Comments(0)

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 419日から21日に掛けて島根県出雲市の弥生遺跡の銅剣538本が一度に発掘された、山の中の遺跡を見に行きました。以前より一度訪ねてみたかった荒神谷遺跡と、そこから3kmの近くにある加茂岩倉遺跡を見たかったのです。

行く前に、荒神谷遺跡博物館に電話して調べてみたのですが、荒神谷から加茂岩倉まではたった3kmなのですが、山道や林道も確かでなく、電車で戻って他の駅より方法が無いとの返事でした。

双方共に弥生後期遺跡であり、荒神谷は銅剣、加茂岩倉は銅鐸が39個も出土したところです。このことを考えると、出雲地方は弥生後期には大きな勢力を持った文化圏があり、おそらくは朝鮮半島の文化も入っていたのかもしれません。出雲大社の神殿の柱跡も見ましたが、確かに巨大な建設物があったのは確実です。

 朝920分に無人駅の荘原駅に降り立つと、そこには幸にもタクシーが1台居りました。往きか帰りかに遺跡より歩いてみたいと思いましたが、行きをタクシーにしました。歩いて453.5キロとありますが道が判りにくいのです。

荒神谷に着くとそこは山裾で、その谷戸に遺跡はあります。先ずは遺跡を見ようとすると
案内ボランティアの建物が有りました。しかし案内人は居ないとの表示でしたが、カメラを出したり支度をしていると、そこに1人の65歳くらいの男性が現れて、ボランティアですが案内しましょうかと声を掛けてくれました。そしてまだ新米なのですと言います。是非お願いしますと返事をして、2人でゆっくりと山に向かって歩いていきます。

先ず、古代蓮の池があり、蓮の芽が水面の上に10センチくらい伸びています。これは大賀一郎博士の千葉の検見川で発見された2000年前の蓮の花であったのです。

私は高校生の頃、生物部におり、その顧問の先生が東大で大賀博士の助手をしていたことがあり、博士が館林の城沼の蓮を調査に来た折、大賀博士と先生の船、その後の続く2隻目の船に乗り沼の蓮を見て、翌日高校で博士の講義を聴いたことがあると話しました。

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暫く行くと山の30度位の斜面に銅剣の出土した場所がありました。良くぞこんな所に遺跡があったものと思い、下の田んぼの端に小さな須恵器の破片を市の調査員が拾い上げた偶然から発見に繋がったそうです。このボランティアの方とは色々と話しましたが、説明もすぎず、聞く耳を持った大変好感の持てる方でした。

 次には資料館に行き、複製品の銅剣と銅鐸の展示を見てきました。発掘された銅剣・銅矛の複製品が沢山展示されており、同時代の土器や馬具などもありました。

1時間半を見学に費し、駅まで歩いて出ることにしました。周りは丁度つつじの花が咲き出しており、静かな田園風景が続きます。

途中の荘原第一小学校の校庭の端には、30メートルの前方後円墳の古墳があり、いかにも遺跡の里にふさわしい光景でした。

駅に戻ると、駅前には食事をするところも全く無く、1時間に1本の山陰本線を待ち、50分近く駅のベンチに座って待つばかりでした。


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# by minoru_mogi | 2017-04-24 16:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、タウン誌に羽村のチューリップ畑が見頃が近づいているという話題が、ほんの少しの記事で載っていました。富山県の礪波平野の広がるチューリップの畑は有名ですが、それ程の規模ではないことを承知の上で、天候に恵まれた4月13日に足を伸ばしました。

羽村駅を降り、多摩川の方へ下って行くと、市の臨時の観光案内所が駅より150mも離れてありました。先ず、そこへ立ち寄り地図を入手して花の情報を聞きますと、今年は寒い日が多かったので、川沿いの桜も満開で、チューリップもかなり咲き出しているとの話しです。このチューリップの畑についてはもう少しPRした方が良いのではと言うと、この球根は全部手植えであり、あまり拡張は出来ないのですとの説明です。それではあの富山県の球根はどの様に植えられているのか気に懸かりました。

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 多摩川まで来ると、土手沿いにソメイヨシノの並木がずっと遠くまで続いており、先日の雨で川の流れも滔々と流れており、新緑の芽が出始めた対岸の丘が綺麗です。暫く1kmくらい土手の上を上流に向かって歩くと、右手にチューリップの畑が土手より少し離れて良く咲いているのが眺められます。

丁度、お昼の時間なので、チューリップ畑は後にして、土手の端の草の上に腰を下ろし、オニギリを食べ始めました。その前に広がる川の緑地では幼稚園児が100名くらい来ており、皆が駆け回っています。私は草の上に座り、オオイヌノフグリのサファイア色の花の上に座らないように気を配りながら場所を決めました。

 昼食を済ませ、早速チューリップ畑へ向かいました。そこ

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には黄色や朱や赤や白、一重や八重の花が畝ごとに交互に植えてありました。しかし、その半分くらいはまだ花が咲き出していないのです。更に1週間の後の方が良さそうでした。見物の人々が皆ゆったりと畑の中の細い道を行きます。そして、花の上には5月の鯉のぼりが踊っていました。

案内所の話のように、チューリップ畑では5月に球根を掘り上げて、その後には稲の苗が植えられ、秋のお米の収穫後は又11月には手作業で球根の植付けがなされるそうです。

多くの人たちの手に依り、この畑が見られる優れたサイクルが年々続くことには、それなりに大変な仕事を受け持ってくれる人達の努力の結晶なのでした。


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# by minoru_mogi | 2017-04-13 20:42 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 今年も八王子ワイズメンズクラブの一年で最大の行事であるチャリティーコンサートが八王子北野の市民ホールで、311日に行われました。今年は特に私が実行委員長となり、例年とは何か違うことを考えて、今回はジャズのグループを呼ぼうと思いました。

しかし、そのジャズのグループをどうして探し出すか、また、そのグループがチャリティーコンサートという、あまり報酬が期待できない役を引き受けて貰えるかという不安もあります。

 そこで、私の昔よりの交流のある異業種交流会で知り会った音楽に関する仕事をしてきた遠山氏に、この様な希望にかなうグループが有るか聞いてみました。彼が言うには、今はジャズ演奏のグループは少ないと言うのです。

暫くして、銀座で演奏しているグループがあるので、一緒に聴きに行きましょうとの誘いがあり、会の女性メンバーの小口さんと銀座にあるサッポロ・ビア・プラザに7月の中旬に出かけ、夜遅くまで聴いてきました。この時の感想では、かなり可能性が有ると思われました。

 我々の大学生の頃であった1960年(昭35)~1970年(昭45)はジャズの全盛期であり、ラジオから何時もそれを耳にしていました。また経済背景も好景気で経済成長率も最大の時代でした。

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11月になり、スイングジャズの5人編成のグループが私達のチャリティーコンサートに出演してくれる事になり、出演料も決まりました。しかし、残念なことに、このグループの演奏を聴く良い場所と時間が合わず、結局これらが叶ったのは、何とコンサート当日の9日前であり、銀座ビアプラザで会の男性5人が行き聴いてきました。私はここで、これなら必ず皆さんが喜ぶ内容であると確信を持ちました。

 コンサート会場は300名席の市の北野ホールで催され、観客は230余名の中高年の方の観客が主に集まりました。

5名の出演メンバーはリーダーの女性のフルート、ピアノ、ベース、ビブラフォン、ドラムスの4人の40代から50才代のメンバーです。会場の雰囲気はとても盛り上がり、観客が楽しんでいることが、私が担当していた音響・照明室からも分ります。2時間の演奏も途中の休憩を含めて、とても短く感じました。

お客さんの中に、盲導犬を連れた2人の女性が来ており、この音楽会が市民の方々に良く浸透していることを実感しました。また、以前、アイメイト協会という盲導犬を育成する協会を援助するべく、川口市の市民ホールで催したチャリティーコンサートを思い出しました。会社を退職後から色々な市民支援活動をしてきたものでしたが、それなりに有意義な時間であったと感じています。



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# by minoru_mogi | 2017-03-19 21:18 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昭和40年頃(1960年頃)アメリカのニュヨークのファッションは世界をリードしており、ドルも高く240円位でした。その頃の百貨店は元気であり、米国から色々な商品を輸入する動きが広がってきました。そんな流れに遅れまいと、私の百貨店でもその動きが出て、百貨店の一番の利益を出していた紳士服部がその尖兵を担ったのです。

 会社は年功序列が当たり前であり、客に自分から商品を売った事がない、電鉄から来た課長と部長がニューヨークに行き、衣料品を仕入れて来ました。もちろん商社である三菱商事のニューヨーク事務所が支援してくれた訳です。

彼らは米国のジーンズやカジュアル衣料を買い付けてきました。ところが、そのジーンズがサイズが日本人の体型に適さず、ウエストが合っても尻回りが大きすぎるのです。また、カジュアルウエアは袖丈が長すぎて日本人には売れません。当時のカジュアル衣料の販売担当係長の私は全く困ってしまいました。値下げをして何とか売りましょうとその上司に相談すると許可を出してくれません。

 これら米国からの商品を買い付けて、ニューヨーク港から大きな木箱(1.5m×1.5m)の幾つかが横浜港に入り、乙仲によって店の商品倉庫に運びこまれました。私は当時は英語は堪能であり、加えてコレスポンデンス(商業手紙)も担当できたので、荷を受け取り開梱をしました。

しかし、数を数えるとインボイスの数字とより少なく、数が57%少なく、抜き取られているのです。

一度などは、作業員の使用するゴム引きの大きな手袋が片手出てきました。

それを調べるべく、輸入業務代行の三菱商事東京に尋ねると、ニュウューヨーク港のマフィアの税金ですよと言います。米国の輸出会社の社長が来日した折に聞いてみると、マフィアの税金ですよと事もなげに言います。

 こんな事が有ってから34年後、係長であった私が紳士用品課長と一緒に米国に買い付けに行き、米国百貨店の事情を勉強に行くことになりました。

私は一計を謀りました。事前に買い付け予定の商品リストを経理担当の役員に提出して、このリストの商品を輸入することでこれだけ利益が出るという計画書を提出しました。しかし、私は米国での契約において、もし何月何日までに船積が出来ない場合、この契約は中止されるという条項を付けました。

そのお陰で半数程しか商品は届きませんでした。また、ニュヨーク港では必ずマフィアの税金の荷抜きが有ったので、商品を西海岸の港で船積みする様にしました。

その結果全く荷抜きは無く、マフィアを出し抜くことが出来ました。


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# by minoru_mogi | 2017-03-12 21:22 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 3月19日の暖かな日曜日、房総半島の先端の千倉まで春の花を見に一日観光のバス旅行に出掛けました。近ツーのバスで5人が手を繋いだマークが車体の横に見えます。

バスの運転手は50歳近くの体格の良い人でした。八王子のJR駅前より出て立川で他の客を乗せて全員で38名の乗車です。

私は実は房総半島には今迄一度しか電車で行った事しかなく、その電車の始発駅は両国でした。館山まで行って、野島崎の白い燈台までしか行った事がありません。そんなわけで千葉県を良く巡ったことはありません。

今回、東京湾を横切るアクアラインの海ほたるを見てみたかったのです。川崎より海底トンネルが続き湾内の中央くらいに海ほたるが有り、初めて見るのです。日本の海底工事のレベルの高さを感じました。


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また、そこよりの景色は素晴らしく、西側には雪の富士山の後方には南アルプスの白い壁のような山並みが望見されます。その上を羽田に向かう航空機が続いています。海ほたるを出て金谷で食事です。驚いたことにここから見える三浦半島は目と鼻の先でした。地図上ではもっと遠くにあると思いましたが近いのにはびっくりしました。千葉側は五井の石油コンビナートの高い煙突から、白い水蒸気が上がり、君津の製鉄所の高炉が目に入りました。

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本来の目的である千倉にやって来ると、案内の写真では一面が花畑と思いきや、道の駅のような「潮風大国」の前の区画のみが小さな畑に区切られて、キンセンカ、ストック、菜の花、矢車草、金魚草、ポピーなどが狭い区画の一面に咲き誇っていました。私は出荷用の花が1種類ごとに咲いているのを想像していましたが、それは外れてしまいました。帰路は日曜日で有ったためか、アクアラインが大渋滞であり大変遅れて八王子まで戻りました。

このバスの運転手さんは大変静かな安全第一の運転であり、惚れ惚れするものであり、私は彼に直接話しかけて「ありがとうございました。今日の運転は惚れ惚れするものであり、私が今まで乗ったバスで最高のものでした」と感謝の言葉を掛けてバスを降りました。

この運転手の方は多分今日の晩酌は美味しく感じたでしょう。しかし、その様な運転をして貰えれば他の人も感謝の気持ちを持って旅を楽しんでもらえると思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-02-22 15:35 | 随想 | Trackback | Comments(0)

庭の梅ノ木  No649

 我が家の庭には会社の友人から貰ったピンクの花の梅の木があり、貰った時は50センチ程の高さでしたが今は根元の直径が20cmくらいであり30年程も経ちます。それを分けてくれた方は3年ほど前に癌で亡くなってしまいました。

梅の花は頭頂がピンクになってから花が咲くまでに10日以上掛かり、木全体の花が咲き出すまでには更に2週間は掛かるようで待ちくたびれます。

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その匂いが花に鼻をつけてかいで見ますと良く分りますが、以前の様に良く匂うとは感じられません。こらは私が高齢になり、鼻の匂いを感ずる細胞が能力が落ちた結果と考えられます。少々ガッカリしています。梅の花は紅梅が先に咲き出すようで、しかも濃いものが最も早く、だんだん薄い紅色に移り、次に白梅が咲いてくる様子です。

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屋外を歩いていると道の脇にイヌノフグリが空の色を移した様なブルーの小さな花を咲かせており、あたりに梅が咲いているとその傍に行って必ず匂いを嗅いでいます。

大寒のさなかですが春は着実に近づいており、今日は節分草の花芽が土の上にちょっぴりと出ているのを発見し、昨年より1週間は早い様子です。この様子では215日頃には咲き出しそうですが、今年はこの頃雨が少なく乾燥しているので生育に影響するのではと少し心配しています。


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# by minoru_mogi | 2017-02-04 21:19 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、新聞の片隅に国学院大学の博物館にて火焔型土器展の案内が載っており、以前より友人からこの博物館は一度見る価値があることを聞いていたので、早速に見に行って見ました。渋谷駅より歩いて15分くらいで大学に到着しました。博物館は大学正門前の立派な建物の1階に有り、ありがたいことに無料です。

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中に入ると独りの方や2人連れの中高年の方が静かに見学しています。入ると直ぐに映像での事前説明が10分ほど有り、それを見てから次の奥へと行くと、そこには立派な40センチもの高さのある火焔式土器が一つ一つ独立して展示してあります。約8千年前から5千年前にかけての縄文中期の新潟県長岡市や南城町を中心に発掘された王冠型土器と火焔式土器が多数展示されています。
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また、常設の展示場では縄文や弥生時代の石器や青銅器、登呂遺跡の木製品などが多数展示されています。このかなり広さが有る博物館は主に縄文と弥生時代のものに特化している感じがありました。

 博物館を1時間程見て校舎の方に行くと、大学正門の大きな2本のヒマラヤ杉の林の中に、神社拝殿があり大学の由来が良く分かります。校舎は高層ビル1棟とその周りに管理棟、や教室棟、学生福祉棟などが大変落ち着いた雰囲気の皆立派なものでした。

その福祉棟に学食があり、そこで昼食を摂りました。最後に学生の行くカフェテリアへと行くと、学生達が沢山おり、その建物の南側の外にあるテラスの休憩椅子に座り、ゆっくりとお茶を楽しみました。


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# by minoru_mogi | 2017-01-26 17:31 | 随想 | Trackback | Comments(0)



 フランス南部のラスコーの洞窟には2万年前に住んでいたクロマニョン人が動物の壁画を沢山遺しています。この地の4万年前頃にはネアンデルタール人がおり、現在の遺伝子分析では、現人類の遺伝子の1.5%位の割合で影響していることが最近判明しました。

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        貝のアクセサリーを着けたクロマニヨン人

その後旧石器時代にいたクロマニヨン人は現在の我々ホモサピエンスであり、アフリカよりヨーロッパへと渡ってきました。

この2万年前前後は氷河時代であり、海面が今より120mも低かったのです。その頃の日本列島はユーラッシャ大陸と陸続きの状態でした。このクロマニヨン人は人類で初めて絵画という芸術を生み出した人々です。その絵画の対象は全部動物であり、彼らの狩の対象となったものです。彼らは芸術として書いたのではなく、別の目的だったのでしょう。

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壁画

この人達は暗い洞窟の中で動物の脂を燃やして、チームでほとんど実物大の動物の姿を描き着色もしました。そしてラスコーの石灰洞窟の壁や天井に多くの壁画を残しました。暗い展示場にはその模写の大きな画像が並んでおり、動物は色々で大変動きのある姿です。

バイソン、牛、馬、山羊、鹿、ねこ科の動物(ライオン、ヒョウ、か判明しません)などです。

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                    骨で作った針

この壁画は1940年に発見され、今は人が入れないように保護されておりフランス政府が模写をして世界の各国に貸し出しているのです。今回は日本がその会場です。

会場には思った以上の見学者が来ており、熱心に注視しています。なかなか素晴らし企画で、もう少しPRされればと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-01-13 20:05 | 随想 | Trackback | Comments(0)