新聞の書評欄を見ていてこのタイトルの本を見つけました。両親が仕事上の転勤により主要6ヶ国で、4つの言葉を使い分けてロシア生まれのナージャが小学校から各国で経験した学校でのお話です。
ナージャは6歳の時ロシアの学校で小1となり、日本には7歳の時に来て京都で小2となると、8歳の時には英国のケンブリッジで小3を経験し、9歳の時にはフランスのパリで小3の後半を過ごし、10歳の時に再び日本の東京で小4となり、11歳の折にはアメリカのウイスコンシンで小5をすごし、また日本の東京で12歳を迎へ小6、次のカナダではモントリオールで中1、中2であり、最後に日本の札幌で中3となりました。
その各国の学校を比較してみると実に色々な変化がありそれぞれに目的が違うことが分かります。先ず、最初のロシアの学校では長めの机で二人掛けであり、男の子と女の子がペアとなる席の配置だそうです。日本では一人掛けの机での席が普通ですが、それは必ずしも世界では一般的ではないそうです。
英国では6人の机が皆くっつけられて一つの島のようになっており、それが幾つも有るのが一つの教室です。フランスでは円形に個々の机をくっつけているのですが、先生はその中に居るのだそうです。アメリカではコの字型に机を配置してあるのですが、真ん中にはカーペットやソファーが配置されているようです。
著者は今は日本に在住してコピーライターやデザイナーの仕事をしている様ですが、大人になってからのナージャの疑問も知りたいものです。期待しましょう。
9月の初めの夕方、何時ものように散歩に出て住宅地を歩いていると足元に今死んだばかりと思えるオニヤンマの姿が横たわっている。まだ生きている様な姿に手に取って観察してみた。
ここ数年近くでこの様な立派なものは見たことがない。しかし、35年ほども前にこの地に移り住んだ時には、庭の芝生の上空に良く来て飛んでいたものである。その頃はまだ近くの宅地造成が進んでおらず、山林が近くにあり丘の麓には小さな水流の湧いているところもいくつかあった。
手に取ってそのオニヤンマを近くに家の鉢植えの草の上にそっと置いて立ち去ろうとしたが、思い直してそれを手に取って持って帰る事にした。多分大変珍しい物を見つけたとの思いがしたからである。
散歩を小1時間歩いて家に帰ってみると、このトンボは死後硬直したのか足が縮まり大きな光っていた目玉が傾てしまっていた。トンボの王様の威厳は失せてしまっていた。
戦前私が小学校に上がる頃に、隣の家の大学生のお兄さんがギンヤンマに糸を付けて畑の中でそれを回してメスのヤンマをおびき寄せて取るのを見た事があった。横浜の住宅地に住んでいる頃であった。
最近は昔のことは鮮明に覚えているのだが、今の事を直ぐに忘れる事は困ったことである。84歳という歴史がそうさせるのであろうか。
我が家族の姓は茂木「モギ」であるとばかり思っていました。ところが今回たまたま「終活ノート」を書き始めたところ父親の家系の欄がありました。
前から少し気懸りな事があり、父が亡くなってからは栃木県の父の叔父さん達の葬儀のいくつかに参加したことが有りました。その折に親戚の方々が皆「モテギ」と姓を名乗っていました。
そういえば、本家である佐野市の郊外にある本家の方々は皆「モテギ」と言っていたようでした。しかし、私の家族のみは「モギ」で済ませてきていたのであったのです。
そこでなぜ我が家のみその呼び方であるかを調べて見ました。その原因は横浜市に長く住んでいたことが原因であろうという事が判ってきました。私の父母は戦前の7・8年間横浜の神奈川区松が丘に住んでいました。近くの駅は東横線の反町駅が10分位の所でした。
横浜では明治時代から絹の輸出商の「茂木惣兵衛(モギ ソウベイ)」という有名人がおり、市内の伊勢崎町に野沢屋デパートを設立して、また銀行も興しました。その様な訳で横浜の人達は「茂木」の文字を見ると必ず「モギ」と読みました。
おそらく推測ではありますが、父や母は「モギ」ではなく「モテギ」が正しい姓であることをその都度説明するのが面倒になってきたのではないかと推察されます。
その様な訳で横浜では「モギ」と呼ばれており、それが不自然な事とは思いませんでした。昭和19年に疎開で群馬県の母の里である館林町に住んだがやはり「モギ」を名乗っていました。
今回、この姓の読み方が違っていたことは、今も佐野市に在住しているいとこの独身の女性に訊ねてやっと確認することが出来ました。
役所の出す戸籍は文字のみで他人と別人の識別しており、その読み方に関係が無いのは不自然に思えてなりません。これはアルファベットの名前では起こり得ないことに思えるのですが、漢字文化社会の問題点の一つを見つけて気がしました。
高校へ入学して生物部に入り最初の遠出は群馬三山の一つ赤城山であった。朝早く館林駅より東武電車に乗り赤城山の麓に着いたのは10時頃であったろうか。
麓より長い山道を歩いて山頂に近い大沼と小沼の近くまで登ると、昼近い時間であった。やっと平坦な山道となり覚満淵の付近まで来た。
赤城山の山頂は黒檜山(1,828m)であるが、今の標高は1,470mであり6月初旬ではまだ春の花芽が生えそろった頃であった。覚満淵の畔に来ると初めて見る日本スズランが沢山咲いているではないか。丁度花の季節であり白い花がそこここに咲いている。しかし花の着いている株は意外と少なく、白い絨毯などと言える段階ではなかった。しかし、初めて見た北海道に咲くと言われる花をみて感動したものであった。
ひそやかに咲く日本スズラン
その近くで皆と共におにぎりを食べて、もう少し行けば見られる大沼までは時間が無いので諦めて、残念ではあったが又遠い山道を下って行った。
長じて会社に入り50歳位の時、会社の仲間15人位の方と一緒に長野県の入笠山(1,955m)に登ったことが有ります。その山頂付近には山頂にかけて広大な日本スズランの大群落が有ります。雑木もないスズランは日照に恵まれて殆どのスズランには花が良く着いており6月の山頂の素晴らし景色を演出しています。
今年の春4月には我が家の鉢植えの日本スズランが久しぶりに花を着けました。鉢の中には15本くらいの花茎が有りますが、花の着いたのはたったの1本でした。
本当にいとしい感じがします。これ程までに環境が山の上と異なるのが原因となり、山野草を作るのが難しいのです。
花の良く付くドイツスズラン
最近はドイツスズランが一般的に園芸で植えられるようになっており、日照の良い場所に植えれば毎年花が良く着き、どこの家の庭にも、時には街路樹の脇にも沢山植えられています。
65年前にはドイツスズランは日本ではまだ広がっていなかったのです。