山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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大磯 旧吉田茂邸




 1月中旬の暖かな日に、東海道線の大磯へと行ってきました。その目的は昭和の偉大な政治家吉田茂の住んだ邸宅を訪ねてみました。元の邸宅は先年焼失してしまい、平成294月に再建されたものです。

駅を降りて駅前より神奈中バスに乗り10分程で城山公園前(じょうやま)に下車しました。すると、直ぐ近くの信号の所に行くと、50人くらいの中年男女の団体が皆リュックを背負って信号を変るのを待っています。この人達は皆私と同じ吉田邸へ向かっているのだと思い、それについて行くと、そこには隣接地の元三井の別荘地であった県立城山公園であり、その丘の上の景色の素晴らしい所に着きました。この団体の人達は皆そこで昼食の弁当を開き始めました。そこよりは前山を従えた富士山が雪の姿で出迎えてくれました。

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園内は大変広くその中には横穴式の古墳群も有ります。しかし時間が無く郷土資料館までは見ることが出来ませんでした。

 そこで、急いで本来の目的の吉田茂邸へと向かいました。正門を入ると直ぐにバラ園が有りました。それらは冬の枝の剪定を終え、大変よく手入れがされた多くの種類のバラがありました。更に進むと、兜門ありそこよりは広い芝生の庭に連なっています。

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その傾斜のある庭の低い部分には立派な池があり、綺麗な水が広がっています。池の中には石の塔があり、その先には椰子の木が一本茂っています。日本庭園に椰子の木は大変珍しい物です。

行き届いた石畳の道を本館に向かいます。本館に入ると受付がありますが、周りの柱や廊下は皆むくの節目の無い全くあたらしい綺麗な木造の家屋です。先ず、南に面した応接間を見ると、大きな立派なソファーが三つと、ゆったりとした椅子が5客くらいある、飾りの石作りのマントルピースが備えられた広々とした空間です。ドイツのアデナウアー首相や天皇夫妻(現在の)がここに来ています。

二階へ上がると執務室兼書斎と寝室や生活のための空間がゆったりと取ってありました。

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大きな窓からは海側を見ると、黒松の林の向こうに海が光っています。山側に目を向けると箱根の山並みの上に雪の富士山がどっしりと控えています。この様な良い敷地は貿易商をしていた彼の父親が入手していたものだそうです。元首相はこの地で昭和42年89歳で没したのです。

暖かな冬の陽射しの中、立派な庭と素晴らし日本建築を十二分に楽しみました。


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# by minoru_mogi | 2018-01-18 14:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 今読んでいる本が、人類発生後の260万年前から170万年前の頃の内容が書いてあり、東アフリカ大地溝帯に発生して現人類が20万年前に分かれ、10万年前にアフリカよりユーラシア大陸へと移動し、ネアンデルタール人に途中で分化しています。

 この200万年前より80万年前の間の年代の化石と石器がエチオピアのコンソという地域より出土し、エチオピア政府の協力で東大博物館において、特別展「最古の石器とハンドアックス」が催され、18128日まで展示されています。入場料は無料です。

 大江戸線本郷6丁目で下車して、4番出口より出ると、博物館が直ぐに入れる門がありました。建物が直ぐに分り入館すると、そこには常設展の色々な物が展示されています。

蝶の標本、古代の石器、古代土器、動物の剥製、動物や人体の骨格などです。

入口の近くには大森貝塚を発見したウイリアム・モースの発掘した縄文後期の土器・石器・などもまとめて展示してあります。モースは東大に2年居りましたが、その間に大森のみならず、日本の北海道から九州までの各所の発掘をしていたことが分ります。展示品の中には馬の剥製や象の骨の骨格等の展示もありました。

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「特別展」は一番奥の部屋にありました。この部屋に入ると頭骨のレプリカが中空に下げられており、人類の系統進化が判るようにしてあります。それら頭骨は現代人のそれとは大きく異なり、類人猿に近いと思われる形をしていました。

そして、この人類の使用し始めた石器は大変大きくて重そうな物であり、そこには加工されたことが判るものでした。ハンドアックス、クリーパー、スクレーパーなどの形が判別でき、175万年前の頃の石器がかなり沢山の展示がありました。当日は平日にも拘らず、かなりの見学者がおり、女性の方も居りました。

今読んでいる筑摩新書の「人類5000年史」を視覚的に実証する機会として、実にタイミングの良い展示会でした。


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# by minoru_mogi | 2018-01-14 13:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

拝島大師 初詣

 毎年、正月3が日の内に何処か有名な神社・仏閣に初詣に行くことを恒例にしていますが、今度は有名な所には殆ど行ってしまい、暮れより何処にしようかと考えていたところ、理髪店で店主と話をしていたら近くに拝島大師があり、その近くの出身なのだと言います。

早速その大師をパソコンで検索してみると、駅より20分位歩かなければなりません。参拝者のために臨時バスが出ているという記事がありますが、さて時刻表が出て来ません。

 今年の正月は孫達3人が我が家に泊まっているので、家内と娘と孫達3人の6人で朝の9時に家を出て電車で拝島へ向かいました。電車の接続がスムースでお寺に近い駅の昭島駅に着くと、駅前のバスターミナルには初詣の人々のために大師への直通臨時バスが待っていました。車内は思わぬ空いた状態で20名くらいの年配者ばかりでした。

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 寺に着くとかなりの人々が来ていて境内の参道には正月23日のみ開かれるダルマ市がずっと並んでいました。快晴の空の下赤いダルマの山が見事です。

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本堂への参拝を済ませ、子供達はダルマを買いました。一人は金色の小さい物を、もう一人は普通の赤い物を買いました。そして、今度は食べ物屋台でチョコバナナを皆食べていました。

 ダルマ市の思い出は、私が大学生時代、府中の在日第五空軍の大佐の奥さんと、従軍牧師の奥さんと共に大きなアメリカ車に乗って深大寺の3月のダルマ市に二人を案内し、通訳を務めたことを思い出しました。天気の良い暖かな日で二人とも大変喜んでくれて、昼食に六本木の立派な中華料理店に行き、3人でテーブルを囲み私はご馳走になりました。

そしてその時食べた中華料理を今でも鮮明に憶えています。それらは卵スープ、春巻き、あんかけ揚げ餃子、白菜のスープ煮、炒飯などでした。これらの中で食べたことの有った物は炒飯だけです。こんな美味しいものが有るのかと本当に感心しました。

その頃の学生は納豆、鯨のカツ、豚汁ライスなどを食べていたのですから当たり前ですね。

今回は思い出深いダルマ市でした。


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# by minoru_mogi | 2018-01-05 13:25 | 随想 | Trackback | Comments(0)

新設工事中の国立競技場

 私は予備校時代と大学1年の頃、青山の外苑前より近くの下宿におり、この国立競技場や東京体育館の周りは大変良く知っています。

千駄ヶ谷駅を降りると、この駅もオリンピックに備えてと思われる改修工事をしていました。体育館の前を通り、丁度、国立競技場の建設現場の良く見える場所に出ました。そこには高いクレーンが何基も立っており、競技場の観客席の壁が延び、席もかなり出来上がっている様子です。しかし、暮れの28日では工事は既に休みとなっています。

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工事現場に沿って南へと歩いて行くと、元の競技場の2倍くらいの感じがするスタジアムが既に完成へと進捗状況は良好のようです。先に進み日本青年館のところに来ましたが、全くその建物はありません。その跡地では大きな基礎工事が進められており、新しい日本青年館がオリンピックまでには立ち上がるのでしょう。


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神宮球場に沿って北上していくと明治記念館前に出ました。そこには神宮外苑の大樹が広々とした広場と共に聳え立っていました。その光景は私が代々木の予備校へ通って頃とほとんど変っていませんでした。そして信濃町駅に出て新宿に戻りました。

オリンピック年の2020年は目前ですが。それを見るためにはやはりそれまで健康を維持して行きたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-12-29 19:49 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 40年程も前に、私が働いていた百貨店の紳士服の販売員に,店に近い農家の女性が私と一緒に働いていました。我が家が国分寺より八王子に移った折に、庭の土が粘土であり、植物を植えるには適していないので、畑土が欲しいと思っていたところ、この女性が自分の家の畑土を無償で提供してくれて、それを友人に頼んで家の庭に大量に運び、花を植える庭を作りました。

 その後、彼女が伊豆の下田に旅行で行った折に、爪木崎の日本水仙を2球土産として買って来てくれました。それを庭の日のよく当る場所に埋めると、年々良く花を咲かせて、同時に球根が3年毎に約2倍に増えて行きました。10数年すると時折球根を掘り上げて、込んでいた球根を間隔を空けて植えつけると、どんどん増えて行きます。


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 友人の夫妻が河口湖の近くに別荘を作り、花好きの私に庭に何を植えたらよいかを相談がありました。そこで、手のかからない宿根草と球根の花を推薦し、我が家の日本水仙と西洋ラッパ水仙、ジャーマンアイリスを沢山分けてあげて、その庭に植え込みがされました。数年後、その夫妻が庭中に水仙が咲いている写真を送ってきてくれました。

 さらに、東京都の青少年施設である高尾わくわくビレッジの花壇にも、この日本水仙、西洋ラッパ水仙、ジャーマンアイリスを植え付け、毎年何度もその手入れにクラブのメンバーと通うことになりました。加えて、家の近くのバスの折り返し場の花壇にも入れ、立派な花を毎年咲いてくれています。 

しかし、私がその百貨店の職場を離れて数年後、その女性はガンで亡くなりました。

正月前の12月から咲き始める日本水仙を見る度に、このほのかな甘い香りがする花を、昔のその女性への思い出と重ね合わせています。


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# by minoru_mogi | 2017-12-26 19:49 | 随想 | Trackback | Comments(0)

新宿のゴールデン街

11月の末に新宿に於いて高校同期の80歳の仲間7人と共に、昼の食事会を早目の忘年会をかねて、加賀料理の店の個室で催しました。皆で2時間談笑してそれを終えてから、花園神社の裏にある新宿ゴールデン街を見に行ってきました。


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この一画の1ヘクタール程の土地には、昭和30年代の1間半間口の2階建ての飲み屋が長屋のように軒を連ねています。この1画だけでバーが200軒を超えるでしょう。

この街は道幅2.5メートルくらいで、その中にまた1メートル幅くらいの路地があります。

この街がオーストラリアの観光客に大変人気があり、夜ともなると彼等・彼女等が沢山押し寄せます。そしてこれらの店に入り楽しんでゆくのです。

以前より、この街は多くの作家や音楽家が出入りしていましたが、そこはオカマが多いことで知られていました。

花園神社の参道を進むと、外国人が数人来ていました。神社は例祭のために沢山のちょうちんが飾られ、多分、オトリサマの準備をしている様子です。

昔、今より50数年前に新宿の西口で働いていた独身の頃、仕事帰りに皆で夜この神社のお祭りに来たことを思い出しました。大変寒い夜だったことを覚えています。

昼に見ると何ともごちゃごちゃした街です。しかし、夜になれば照明で全く昼の街とは変り、多分、多くの外国人は怪しげなスリリングな雰囲気に足を運ぶのでしょう。

果たして2020年のオリンピックまでにこの街は変るのでしょうか。


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# by minoru_mogi | 2017-12-05 19:50 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 私は17インチのディスプレイを使用しており、その壁紙はおよそ月に一度は変えることにしてます。昨今は山歩きが無理となったので、昔撮った山々の写真や描いたスケッチ画に見入ることが多くなりました。この写真も今の壁紙です。

それらを見ていると、歩いた山のきつかった山道や、素晴らしかった眺めの良い山頂や峠がふっふっと思いだされてきて、大変気持ちが落ち着きます。

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         夜叉神峠からの北岳・間ノ岳

 ここに写真を出したのは11月20日頃の夜叉神峠からの北岳、間ノ岳、の雪姿のものです。この年は11月は大変暖かで、この日は峠の隧道脇の土産物屋兼山宿から1人で1時間程を登り尾根に出ました。すると、猛烈な寒風が北岳から吹いてきて、ゆっくりと山の眺望を楽しみたかったのですが、とても寒風には耐えられず10分ほどで引き返しました。降りは桃の木温泉を経て約2時間をかけてバスの終点である芦倉に戻りましたが、山中の日暮れは早く、気温は急降下してぐっと寒くなり、帰りの電車の暖房が大変心地よかったことを憶えています。

この頃はまだデジカメが無かったので、フイルムカメラでパノラマのように3枚組で撮ったものです。その他にも瑞牆山(みずがき)からの八ヶ岳のスケッチや、南アルプスからの鳳凰三山の姿、三俣蓮華よりの北鎌尾根と槍ヶ岳の姿の画も描いてあります。

今となってはこれらの絵は私にとっての宝物となっており、スケッチの画集4冊になっています。

昔のことを思い出して充実していた時期を思う年になったということでしょうか。


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# by minoru_mogi | 2017-11-23 16:56 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 大学の秋の学園祭の折に、大学主催のOBOGのホームカミングデーがありました。その前日、私の家に長い間会っていない昔の同じゼミ仲間であった友人から電話があり、明日の大学の行事に出席するかと聞いてきました。私は毎年何か支障が無い限り出席しており、もちろん出席の旨を伝えました。

彼は昨年奥様と共にその会に出席したそうですが、私と会うことが出来ず残念であったと言います。大学のホールで行われる歓迎会では約800名の参加者ではやはり難しかったと思われます。また、行く時は自分は杖を突いてゆくので直ぐ分るだろうと言います。

 当日、大学へは開催時間より30分以上前に行き、彼の来るのをホールの前で待ちました。駅より彼はタクシーで来ると言いましたので、その方向から来る人を見ていましたが、1人の人がステッキを持って軽い足取りで来る人がいましたが、痩せており、体の大きな彼ではないと判断しました。開会近くになると杖を突きながら来る人が何人も居ます。しかし皆彼ではありません。定刻少し前になりホールの入口に行くと、さっき見た杖を持った人がポッンと立っています。

そこで、その方に○○さんですかと声を掛けると、そうですとの返事であり、話す声が昔の彼だったのです。学生時代95キロもあった体重が今は65キロであるとのことで、あまり痩せており全く分らなかったのです。

お互いに「声だけは変らないな」と言い、私は薄い頭髪に手をやりました。彼とは結婚式が神田の学士会館であったことを覚えていますが、その後の交流はありませんでした。

正に50数年ぶりの再会であり、同じゼミにいた仲間の話題になりました。同期の中にも既に鬼籍の人もおり、私も年齢的に衰えを感じざるを得ません。

お互いに現況報告をして、彼には子供がいないそうで奥様と二人で大泉学園にいることを話しました。二人でホール内の椅子に腰掛け、ビールと料理を手に持ち、話し込みました。

すると話題は一気に学生時代の背景の中に引き込まれた1時間となりました。

会の終わる少し前に会場を出て、国分寺の南口までその頃の通学路の話をしながらゆっくりと歩み、国分寺駅では北口再開発の工事中の高層ビルを見て、昔の昭和30年代後半の中央線の三寺の賑やかな時代が再度来るものかと願いながら別れました。

来年もまた会い楽しい話題に耽りたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-11-08 17:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 来年の5月、大阪の人々と旅行会を予定しており、その候補地の一つとして三島市にある2年前に出来たスカイウオークを下調べに行きました。

吊橋といえば、数年前に高野山へ行った折に、新宮市からバスで奈良県の十津川村にある300m程もある吊橋を見て渡ったことあります。この瀬谷の吊橋は熊野川の上流であり十津川となります。60m程下には十津川の清流が流れており、そのコバルトブルーが大変美しい色を発していました。これは川向こうの集落の人達が自分たちが費用の大半を出して作られたと説明がありました。その橋は集落の人達が渡り、車椅子での使用もあります。

渡って行くと中心部では大きく揺れて大変でした。しかも渡橋料は無料でした。それでは少し申し訳ないので、橋の袂にあるティールームで都会の料金並みのコーヒーを楽しみ、少しでも村の経済にプラスになるように努めました。

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 ところが、今回三島市の外れの箱根行きのバスで行く大吊橋三島スカイウオークに行ってみると、橋の対岸には家は全くありません。しかし、その場所から眺める富士山は端正な姿を見渡せ美しく、左に愛鷹山があり、更にその左には南アルプスの赤石岳、悪沢岳が雪で真っ白な山稜が目に入りました。相模湾を見ると三保の松原まで目に入ります。

橋は400mで高さも76mですが、足下には小さな渓流が流れています。確かに大きな吊橋ですが感動するものがあまりありません。偏に富士山を望む展望台だけです。家に帰り調べてみると、これは地元のフジコーという私企業が作ったもので金儲けの手段でした。しかも、橋を往復するだけで1000円も支払うのです。

三島駅から東海バスで行きましたが、バスは1時間に1本であり超満員で立っていると登りカーブで大変でしかも25分以上掛かりました。その中には中国人の4人家族もいましたが席に座り写真ばかり撮っていました。

帰りはバスを三島大社で降り参拝して門前町を歩くと、正午頃でもあったのでうなぎ屋の店先には多くの順番待ちの人達が並んでいました。やはり三島はうなぎが有名でした。

午後は駅前の楽寿園から湧水の流れに沿って源兵衛川を水の苑緑地まで歩き湧水の町三島を充分堪能しました。


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# by minoru_mogi | 2017-10-30 14:19 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 秋田市には二度目であり、前回来た折には団体旅行の一人であり、他に寒風山などにも立ち寄った記憶があります。その折は秋田キヤッスルホテルに泊まったので、久保田城のお濠の脇を散策したのを覚えています。秋田市には他にも秋田城跡があり、平安時代から北方の民族に対する備えの館跡であり、その地の秋田城跡歴史資料館もある様子です。

駅より近い久保田城は1602年関が原の戦いの2年後に、常陸54万石より出羽20万石に転封された佐竹藩がこの地に平城を築いたものです。

しかしこの地は丘であり石の城壁はありませんが濠は備わっており、本丸、二の丸、三の丸も備わった広い敷地でです。現在は千秋公園となっており、その名称は佐竹家より秋田市にその土地を寄贈された時に名づけられた様子です。現在は城内は市民のための公会堂や図書館、佐竹資料館などがあり、市民が散策していました。

本丸へと上って行く石段には往時の正門(一の門)が市制100周年折に再建されており、大変立派なものでした。本丸の跡には佐竹義堯(佐竹氏12代藩主 敷地を市に寄贈)の高い銅像があり、そこより更に北に行くと「北隅櫓」が立派な姿を見せています。

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久保田城北隅櫓


その櫓内の展示場と最上階展望階より市内を眺めました。城址をゆっくり3時間近くかけて回り、夕刻ホテルへと向かいました。

このホテルは駅からかなり離れており20分近く歩いてゆきました。そのビジネスホテルには温泉施設があり、宿泊者以外にも一般の人が温泉を楽しむ施設がついていました。

宿泊者は自由に温泉に入れますので、食事前に風呂へゆくと、その湯船の色は薄口醤油のような色をしており、匂いはありませんでした。宿の人に聞くとこのあたりは温泉が出ており、33度くらいで湧出しており、少し加温しているとのことでした。

翌日の東京への新幹線「こまち」は快適で晴れていた空は仙台辺りから曇り、東京に近づくと雨になりました。今回の旅では天候には恵まれない少し残念な旅でした。


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# by minoru_mogi | 2017-10-25 19:23 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 青森と秋田へは定年直後の旅行で、19年前に三内丸山、十和田湖、八幡平、鹿角、岩木山、小岩井などを巡りました。しかし、日本海沿いの海岸線は見たことが無かったので、今回、青森から秋田まで五能線に乗ってみました。五能線とは五所川原から能代までを言うことを直前に知りました。

8:10分に青森駅を出た4両編成の列車は、弘前を経て五所川原へと向かいます。その近くになると沿線はりんご畑が続き、収穫前のフジがたわわに枝に生っており、車内からとれそうな近さです。私が知っている長野県のりんご畑は、樹が一直線に並んでおり、そこに針金の支柱が立ち、樹高は4メートルくらいあります。それに比べてこの青森のりんごの樹は低く横に枝を伸ばし、その樹は並んではいません。また。樹は大きなものが多いようです。

この日は朝8時頃まで雨が降っていましたが、9時頃より少し空が見えてきました。五所川原では青空が広がり、車窓からは岩木山が良く見え、その中腹まで黄葉が降りてきています。少し驚いたことには稲がまだ刈り終わってないことで、関東では殆ど刈ってありました。稲の黄金色と岩木山の黄葉は大変美しい景色でした。


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  岩木山

この列車は「しらかみ2号」の急行ですが、単線区間でもあり停車駅も多く、鯵ヶ沢や十二湖駅などにも止まります。車内は乗客も割合に少なく、定年退職旅行と見られる夫妻や台湾からの若い4人連れ、外国人の夫妻、他は3040人ほどの日本人でした。車内で津軽三味線の二人による演奏もありました。団体客が途中で乗り込みどっと降りたのは十二湖駅でした。そこからは白神山地へ行くようです。時間と日にちが有れば是非寄ってみたい場所でした。


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   大荒れの日本海

 電車は海岸線に沿って走りますが、その日は北風が大変強く、海は大荒れであり波高は3~5メートル位はあり、その風の影響から列車は何度も止まりました。沿線には風力発電の塔がかなり沢山見られました。秋田市に近づくと黄金色の田んぼが半分程刈り取りが終わっており、風も治まり時折陽射しのある良い日和となりました。


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# by minoru_mogi | 2017-10-19 13:39 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 以前、約20年前にまだ発掘中の三内丸山縄文遺跡を家内と共に見学に訪れたことがあります。その時は発掘された出土品はまだあまり良く分類されておらず、バラックの様な簡易展示場で土器、石器、矢じり、石槍、土偶、などと共にヒスイの飾物などを見ました。

その時はまだ敷地内で多くの中年女性や男性が一箇所で腰をかがめて地面の発掘に携わっていました。そのすぐ横には青森県が進めていた野球場のコンクリートの観客席が半分出来かけていたのです。

しかし、この遺跡がどれ程大切な物かが分り、野球場工事が中止となり、今回みると全くその跡が残っていませんでした。

残念なことに今回訪れた10月11日は雨の寒い日であり、新青森駅を降りるととても寒く、13度であり、タクシーに乗ると暖房が入っておりほっとしたものです。

遺跡に着くと直ぐ前に立派なコンクリートの2階建ての大きな展示館と併設されたレストランがありました。驚いたことに同館の入場料は無料であり、ロッカーの使用料も同じでした。
丁度
1330からボランティアガイドによる説明があるとのことで待っていると、そこに若い女性のガイドさんが現れました。当日は雨でもあり入場者は極めて少なく観光バスは全く止まっていませんでした。


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ボランティアガイドの女性 左

私は色々な所でボランティアガイドの方々の説明を聞いていますが、ほとんどの所で定年リタイア後の人達ばかりでした。今回は20代後半の若い方でラッキーと思っていましたら、一緒にそれを聞く方がやはり若い女性でした。

20年前に来た時と異なっている追加された新しい施設は、土器を集中して捨ててある場所の展示施設と、子供を土器に入れて埋葬した展示室でした。

遺跡の6本の大木の古代モニュメントはいまだその目的は分りませんが、今は日本国内にはこの様な大木は見つからず、ロシアのソチから運んできたものだそうです。その直径は1メートル以上でした。この遺跡は5500年前頃から始まり、4500年前頃にピークとなり、その頃約100戸の竪穴住居があり、500人ほどの住人がいたと推定されています。当時は地球の温暖期であり、気温は今より2~3度高く、樹木も針葉樹ではなく広葉樹が中心であったのです。海水面も今より高く遺跡の近く迄湾が入っていたのでした。

新潟県のヒスイや北海道の黒曜石などが出土しており、海路での交易が盛んだったことが分っています。往時の交易の中心であったのかもしれません。

今後、もう一度行くことはないと思われますが、縄文の時代を良く理解出来る旅でした。


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# by minoru_mogi | 2017-10-14 16:27 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 江戸時代、50歳で仕事を引退してから自分の研究している暦学(天文学)を活かして日本地図を作成した偉人の足跡を是非見たいものと思っており、まだ少し暑い日ではありましたが、思い立って千葉県の銚子に近い香取市の佐原へと、朝少しばかり早く起きて出掛けてきました。

先ず躊躇したのは、そこまで行くには八王子からは電車では4回乗り換えて4時間近く掛かることです。家を8時頃出ると12時過ぎにやっと佐原駅に着くのです。東京駅から高速バスも出ていますが、好ましい時間には出ていません。しかし、今行かないと今後行ける機会が無くなりそうに思えるので決心して出掛けました。



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庄屋の建物のような佐原駅


 ご当地の記念館には彼の人生の商人としての歴史が大変良く紹介されています。その業績は15年間で売上高を約5倍に拡大していたのです。そして、商人の時から天文学を勉強しており、50歳で江戸へ出て天文学者のところで更に励みました。当時彼が使用していた望遠鏡が展示されていましたが、国産のの3メートルもある屈折望遠であり、木星の衛星を見ていたということは驚きでした。

 彼の日本地図作成の旅は10回にも及び、最初は7名くらいでしたが毎年参加人員が増えてゆき、多い時には15名くらいと公儀からの参加者が加わったようです。その出来上がった日本地図は現在の地図と比較しても、ほとんど同じであり、少し経度がずれているだけでした。

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記念館前の川沿いの古い家屋

展示されていた日本地図は、以前国立博物館で目にしたことがあり、珍しい物ではありませんでしたが、交通機関の無いに等しい江戸時代としては大変であったと思われます。

彼は当時としては長命であり73歳まで存命しましたが、日本全図は彼の死後数年後に完成しました。

シーボルト事件でこれら日本地図が国外へ持ち出されそうになり、幕府はこれを禁じシーボルトを国外追放したのでした。

彼の隠居後の功績は大変素晴らしものであり、その情熱には全く頭が下がります。老人であってもこの様な新しいことに対する持続する情熱は是非とも欲しいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-09-27 19:09 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 高尾わくわくビレッジのワイズガーデンには、77日にワイズ仲間の多河さんと家内と私3人で、ホームセンターでインパチェンスの苗を買って、20株ほどを間隔を空けて植えつけてきました。

夏の間は暑さが大変なので、花は咲き続けているものと思いましたが、雑草取りは出来ませんでした。
9月もお彼岸近くになりかなり涼しくなつてきたので、その後の花の状態と、昨年から球根を埋めてあるマンジュシャゲの花が、丁度咲いている頃と思い、9月の20お彼岸の入りの日にそれらを見るべく高尾へと出かけました。

高尾駅からは彼岸の入りということで、霊園へとバスの急行便が出ており、それを終点まで行くとグリーンタウンのわくわくビレッジの入口まで行きます。

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ビレッジに着いて直ぐにガーデンを見に行くと、7月に移植したインパチェンンスが3倍ほどに大きくなっており、4色の花々も大変よく咲き誇っています。

今迄何度も色々の花を植えてみましたが、夏から秋の花としてダリアやサルビアも上手く育たず、南側にある建物で日光が遮られて日照不足から失敗を重ねた場所なのです。

しかし、それが今回の花は日陰を好む花だったので、上手く適応していたのでした。また、マンジュシャゲ(彼岸花)は咲いてはいましたが盛りを過ぎており、30本ほどの花の茎が目だっていました。

テレビでは日高町の巾着田の映像が出ており、満開の花の中を天皇と皇后が歩いて楽しんでいる姿が放映されていました。

15年ほど前になりますが、私が企画してこの巾着田のマンジュシャゲをワイズの仲間20人ほどで訪れ、よほど暑い日であったからか、店でかき氷を多くの仲間と味わったことを昨日の事の様に思い出しました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-22 16:20 | Trackback | Comments(0)

 私には子供の頃の写真は殆ど有りません。戦時中だったので皆余裕がなく、とても写真など撮って貰えませんでした。残されたただ1枚といえば、父と一緒に横浜の桜木町近くの橋の上で撮られたもので、下駄履きに半ズボン戦闘帽をかぶっている5歳頃のものです。

 そこで子供の頃の思い出が残っていないかと思い、横浜の戦時中の繁華街を訪ねてみました。桜木町に下車して野毛山の市営動物園へと先ずは向かいます。

野毛山公園への道を行き、野毛坂にかかると、私と同じくらいの男性2人が前を行き動物園を目指しています。しかし、その1人が急坂に耐えられず直ぐに休みとなります。とても動物園までの坂を上れそうではありませんでした。

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公園に沿って上がって行くと、睡蓮が咲く日本庭園がありました。水の上にはシオカラトンボが舞っています。更に上って行くと動物園の入口に着きました。財布を出して入園料はと見ると一般の人園が無料でした。

動物園は今は象と白熊は居らず、キリンやシマウマ、ライオン、トラなどがいますが、大型獣でも狭い獣舎で可哀想になりました。割合と広い園であり、大木が多いのですがアップダウンがありなかなか大変です。入園者は5歳以下の子供ずれやベビーカーの若い夫妻が多く、次に多いのは若いアベックの人達でした。園を出てから水道山の見晴らしポイントへ行って見ましたが、そこからはブリッジやタワー、パシフィコ、ランドマークタワーは良く見えますが、海は全く見えません。

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 そこからは今度は南に山を降りて30分くらい歩いて伊勢崎町へ出てみました。しかし、街は賑やかで人通りも沢山有りますが、あまり綺麗でなく昔のイメージは有りませんでした。

この街中を歩いていると、昔子供時代に来た松坂屋が昔のイメージどおりあり、今は百貨店では無く色々な店が入っているテナントビルとなっていました。また、通りの南側には有隣堂書店があり、この2店のみが戦時中からの生き残りのものでした。

結局、伊勢崎町の記憶は確かでしたが、野毛の町と動物園の記憶は出てきませんでした。

そして、入学前に遊んだ友達の顔をうっすらと思い起こしました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-06 16:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

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 この映画には私は大変関心があり、826日の封切り後7日目に府中に行き見てきました。最初に感想を述べると、この映画はその歴史的な背景を良く理解していないと、十分には楽しめないと思います。

この天下分け目の1600915日の1日の戦いは、秀吉が伏見城で生涯を終えたことに依り、後を継ぐ秀吉の子供である秀頼が幼少であり、その跡目を誰が継ぐかに懸かっていました。秀吉の朝鮮出兵は1592年からであり(文禄の役、慶長の役)1598年秀吉の死により兵を引きました。

この関が原の戦いはその2年後に全国の大名が参戦して戦われた、正に天下分け目の徳川家康と石田三成の戦いであったのです。私見では、それらを理解して映画を見るには、もう一度映画館に足を運ばないと、とても十分に理解出来るものではありません。

 映画の中では家康役の役所広司が実に上手い演技で目立っています。石田三成役の岡田准一は西軍の総大将として、他の西軍の将の支持が十分ではなく、戦いの中で小早川の寝返りと、毛利藩の軍勢が戦いを静観、さらには島津藩の動静等、絶対的な支持の無さが戦を決めました。

戦いの場面はかなり長く、多分、島津藩の敵中突破が大々的に出るかと思いましたが、それには全く触れていませんでした。西軍総大将の石田三成は各将の参戦を戦いの中で必死に呼掛けますが、各将はこれに呼応せず、西軍の83,200の兵と東軍の89,000が互角には戦えず、東軍の勝利に終わったのです。

 石田三成は自国の近江に逃げ延びますが、自害はせずに最後は自首して、京都の三条河原で処刑されます。映画の中では忍びの者の挿話が出てきますが、原作の司馬遼太郎の話の中に有るのでしょうか。私としては、あまり意味の無い挿話に思えます。

見た後の感想としては、確かに大作であることは認めますが、クライマックスを感じる場面はありませんでした。さて何点を点けたら良いのでしょうか。

再度、この映画を見直して、初めて点数を付けたいと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-01 21:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 雨続きで病院に行くことだけが予定の日々に嫌気がさして、何か前向きになることはないか考えました。色々考えた中で、新宿の歌声喫茶「ともしび」に2年振りにでも行けば気分も少しは晴れるのではないかと、曇りの17日の午後に出掛けてみました。

 我々の若かった頃の「ともしび」は西武新宿駅の前に大きな店を持ち、1830歳位の若者男女で何時も混雑していました。

それは昭和30年(1955年)頃から10年間くらいがピークで、昭和50年くらいまで続いていました。しかし、1970年頃からカラオケが出現すると、たちまち忘れ去られてしまいました。

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 ピアノの前で歌う客の人々

今また店こそ小さくなったものの、また大いに人気を博しています。しかしその客層はと見てみると、昔の客層とは全く違い、7080代の人々が対象であり、店の立地はJR新宿駅に近いビルの6階であり、店の収容力は65名くらいでした。2時より昼のステージが始まりますが、時間前に席は満席でした。入場料金代1,600円を払い、私は独りであったので一番前の席に座ることになりました。

店内を見回すと男性11名、とその多くが80歳近い方々です。女性はグループで来ている人が多く、55名くらいで70代と見える方々です。

開演してピアノが伴奏を弾きだすと、部屋の皆が一斉に歌いだしました。最初の歌は「青い山脈」でした。私の席には2人の男性と1人の女性で、女性は今日初めて来たと言っていました。男性はたまたま二人とも77歳でした。私のほうが2歳年配です。歌が始まるとその二人の歌声は素晴らしいものでした。声量もあり歌も上手いのです。

そこで月に幾日くらい来ていますかと聞いたところ、ほとんど店の開いている日は毎日との返事でした。しかも八王子の高尾からとのことでした。

私も知らない曲が少しありましたが、ほとんどは大声で歌ってきました。少しはストレスの発散が出来た気がします。

1時間程楽しんでから「アンパンマンの歌」で席を立ち早めに退席することにしました。

老人になって大切なものは刺激です。それに最近は感じ無くなってきているのです。何とかして刺激を追及してゆきたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-08-17 20:30 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 夕刻のNHKテレビで「山へ!to the mountains 展」が世田谷文学館で7月15日より9月18日まで行われていることを知り、その案内の中には深田久弥や田部井淳子の名があったので是非見てみようと考えました。

この夏は晴れの日ばかりで、梅雨明けになったと言っても実感が全くありません。その場所は京王線の芦花公園駅の近くだと判りましたが、私はまだ一度もこの駅には降りたことはありません。
出かけた日は暑い日でしたが、まだ昼にはかなり時間があったので、南口に下りて目的地まで住宅地を7分くらい行くと、木立の中にある文学館へと着きました。
入場料が以外に高く、65歳以上でも600円でした。

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 館内に入るとこの目的の特別展は2階で開催されていました。最初に目に入ってきたのは漫画の山の物語「週間ヤングジャンプ」に2007年から2011年に連載された新田次郎の「弧高の人」の原案を漫画化した、坂本眞一の詳細な原画でした。この漫画は文化庁メディア芸術祭漫画部門で優秀賞となったものでした。

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更に進むと明治時代の小島烏水のウエストンと交流があった登山家の山の書とその原稿がありました。次には深田久弥の我々の若い時代の原稿や、山の写真がゆったりと展示されています。他には田辺和雄(植物学者、探検家)、や田部井淳子(登山家)、石川直樹(写真家・探検家)、の原稿や書籍の展示もありました。しかし、私は山の写真がもっと沢山展示してあるものと期待していたので、少し残念な気もしました。他に、1階の展示場では他の物が展示されていましたが、全く関心が無く早々に出て来ました。

 館内には素敵なコーヒーショップがあり、軽食が提供されるのでピラフとアイスコーヒーを飲み、ゆったりと涼む時間がとれました。

この町は立派な住宅が多く、また周りには大きなマンションが沢山有り、思った以上に良い住宅地でした。


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# by minoru_mogi | 2017-07-26 11:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ここ暫くは日中温度が高いので、外出を控えていましたが退屈になり、やっと好奇心のある所へ行ってみようと、大森貝塚へ出向きました。

この大森貝塚は米国人のモース博士が来日して、東大の教授として明治10年に発見して、縄文時代という言葉が使用される基になったものです。モースがこの貝塚から発掘された土器を英語で「code marked pottery」(縄の跡がある焼き物)としたのを、日本の学者が縄文(紋)と訳したことによります。

因みに、弥生時代の弥生は、東大近くの弥生町から出土した焼物が作られた年代につけた名でした。兎も角、日本の古代史はここから発展したと言っても良いでしょう。


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 ここは今は「大森貝塚遺跡庭園」とされており、大森駅より10分に位置しています。公園はあまり好奇心をくすぐる物も無く普通の公園に貝塚があるばかりです。

大森駅前で食事時にグーグルでその地の地図を見ていると、すぐ近くに品川歴史館があることが判り、貝塚を先に見てから歴史館へと炎天下を更に10分ほど歩いて、立派な塀に囲まれた歴史館に着きました。入場料は100円ですが70歳以上は無料でした。

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中に入ると目の前に立派な日本庭園が広がります。私はこちらを最初に見学することにしました。芝は素晴らしく綺麗に保たれてますが、残念なことにその池には水が無く、小さな流れがあるはずでしたが干上がっていました。節水中と思えました。

また、この建物には日本家屋の書院も接続されており、庭の中には茶室まであります。その茶室の説明看板を読むと、ここには安田善助邸があり多くの財界人がこの茶室に招かれていたそうです。

 展示室に入ると江戸時代の品川宿のジオラマが目に入りました。年表を見ていると大きな甕があります。また品川の海に関するのり船や、品川本陣の模型、御殿山、品川台場、東海寺の説明等、なかなか見ごたえのあるものばかりでした。

帰路は歴史館の近くからバスで大井町駅に出て家へと帰りました。


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# by minoru_mogi | 2017-07-18 20:10 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、書店で本を見ていると、「定年後の最大の問題は何か知っていますか・・・健康?、お金?、いいえ孤独です」というコピーが目に飛び込んできました。そこで早速本を手に取り、50歳からの生き方、終わり方とあるこの書を買って、夜から直ぐに読み始めました。

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 私は定年の60歳でキッパリと会社を辞め、残った時間を社会奉仕と山登りに使いたいと考えました。これには理由があり、私が28歳頃に急性腎炎で大学病院に40日間入院した折に、医師より「貴方は短命でしょう」と言われたことが大きく影響しています。

また55歳くらいより定年後のことを考えて、青少年の活動を支援する世界的なクラブであるワイズメンズクラブ(Y's Men's Club) というYMCAのOB団体に参加して、月に2回の例会と他の活動に携わりました。

 60才からは直ぐに年金を受け取り、まだ健康の確かなうちに好きな山登りに情熱をかけて甲斐駒、八ヶ岳、蓼科山、焼岳、仙丈ケ岳、や日帰りできる山も昔の会社の山仲間とか、親しい友人と2人とか、時には単独行で出かけました。

また、会社時代には無理であった海外旅行には退職2年目よりアメリカ、スイス、東欧、トルコ、シンガポール、タイ、オーストラリア、スリランカ、ベトナム等、その地の友人を訪ねて楽しい旅をしました。また、学生時代に語学で力を入れた英語とドイツ語を駆使してアメリカ、オーストラリア、スイスやオーストリアでは自由に行動が出来、家内と共に良い時間が持てました。

また、日常的には好きな園芸の知識を活かしボランティアで、家の近くのバスターミナルのロータリーの周りに花々を植え、高尾にある青少年施設のわくわくビレッジの花壇にはシーズンごとに花を植え替えて美しく保っています。

 予想外に現在の79歳まで健康な、かなり充実した人生を過ごしてきました。しかし、最近になってから少しその生活に充実感が足らない時間を時折感じるようになって来ており、もう一度人生を考え直してみようかと思っています。

 その第一は原因は体力の低下です。好きな低山歩きも登りでは息切れが激しく、下りでは膝が1時間程しか耐えられなくなってきており、今年はまだ1度しか山に出かけていません。月に1度は出身大学の図書館にゆき読書をしていましたが、これも2ヶ月に1度位になってきました。また、各種の博物館巡りもなかなか重い腰が上がらなくなりました。気力の衰えが一番の原因なのです。

 そこで、気分を一新しようと秋からの活動計画を考えています。このブログに自分の計画を書けば、確実にやらざるを得ないだろうと思うからです。この秋の第一の計画は10月に青森県の三内丸山遺跡を再度見に行くことです。

ここは定年直後、会社より記念に貰った家内と二人の国内旅行券を使い、まだ発掘されて間もない遺跡に行き、仮設の資料館や大きな栗の木の6本柱のモニュメントを見てきましたが、それらがまた私を呼んでいます。
また、平成11年3月の東北大地震の被害地の南三陸町に同年9月にボランティアで
行き、12年6月に音楽ボランティアの1員として石巻市大槌町に行きました。それらの地に是非とも行き、三陸鉄道に乗り、その復興状況を自分の目で見たいと思います。

昨今は周りの人も高齢となり、交流の回数が少なくなってきましたが、私としては残りの人生を「孤独ではない」人生を目指してゆきたいと考えています。


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# by minoru_mogi | 2017-07-13 16:26 | 随想 | Trackback | Comments(0)