山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 419日から21日に掛けて島根県出雲市の弥生遺跡の銅剣538本が一度に発掘された、山の中の遺跡を見に行きました。以前より一度訪ねてみたかった荒神谷遺跡と、そこから3kmの近くにある加茂岩倉遺跡を見たかったのです。

行く前に、荒神谷遺跡博物館に電話して調べてみたのですが、荒神谷から加茂岩倉まではたった3kmなのですが、山道や林道も確かでなく、電車で戻って他の駅より方法が無いとの返事でした。

双方共に弥生後期遺跡であり、荒神谷は銅剣、加茂岩倉は銅鐸が39個も出土したところです。このことを考えると、出雲地方は弥生後期には大きな勢力を持った文化圏があり、おそらくは朝鮮半島の文化も入っていたのかもしれません。出雲大社の神殿の柱跡も見ましたが、確かに巨大な建設物があったのは確実です。

 朝920分に無人駅の荘原駅に降り立つと、そこには幸にもタクシーが1台居りました。往きか帰りかに遺跡より歩いてみたいと思いましたが、行きをタクシーにしました。歩いて45分とありますが、3.5キロとありますが道が判りにくいのです。

荒神谷に着くとそこは山裾で、その谷戸に遺跡はあります。先ずは遺跡を見ようとすると
案内ボランティアの建物が有りました。しかし案内人は居ないとの表示でしたが、カメラを出したり支度をしていると、そこに1人の65歳くらいの男性が現れて、ボランティアですが案内しましょうかと声を掛けてくれました。そしてまだ新米なのですと言います。是非お願いしますと返事をして、2人でゆっくりと山に向かって歩いていきます。

先ず、古代蓮の池があり、蓮の芽が水面の上に10センチくらい伸びています。これは大賀一郎博士の千葉の検見川で発見された2000年前の蓮の花であったのです。

私は高校生の頃、生物部におり、その顧問の先生が東大で大賀博士の助手をしていたことがあり、博士が館林の城沼の蓮を調査に来たことがあり、大賀博士と先生の船、その後の続く2隻目の船に乗り沼の蓮を見て、翌日高校で博士の講義を聴いたことがあると話しました。

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暫く行くと山の30度位の斜面に銅剣の出土した場所がありました。良くぞこんな所に遺跡があったものと思い、下の田んぼの端に小さな須恵器の破片を市の調査員が拾い上げた偶然から発見に繋がったそうです。このボランティアの方とは色々と話しましたが、説明もすぎず、聞く耳を持った大変好感の持てる方でした。

 次には資料館に行き、複製品の銅剣と銅鐸の展示を見てきました。発掘された銅剣・銅矛の複製品が沢山展示されており、同時代の土器や馬具などもありました。

1時間半を見学に費し、駅まで歩いて出ることにしました。周りは丁度つつじの花が咲き出しており、静かな田園風景が続きます。

途中の荘原第一小学校の校庭の端には、30メートルの前方後円墳の古墳があり、いかにも遺跡の里にふさわしい光景でした。

駅に戻ると、駅前には食事をするところも全く無く、1時間に1本の山陰本線を待ち、50分近く駅のベンチに座って待つばかりでした。


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# by minoru_mogi | 2017-04-24 16:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、タウン誌に羽村のチューリップ畑が見頃が近づいているという話題が、ほんの少しの記事で載っていました。富山県の礪波平野の広がるチューリップの畑は有名ですが、それ程の規模ではないことを承知の上で、天候に恵まれた4月13日に足を伸ばしました。

羽村駅を降り、多摩川の方へ下って行くと、市の臨時の観光案内所が駅より150mも離れてありました。先ず、そこへ立ち寄り地図を入手して花の情報を聞きますと、今年は寒い日が多かったので、川沿いの桜も満開で、チューリップもかなり咲き出しているとの話しです。このチューリップの畑についてはもう少しPRした方が良いのではと言うと、この球根は全部手植えであり、あまり拡張は出来ないのですとの説明です。それではあの富山県の球根はどの様に植えられているのか気に懸かりました。

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 多摩川まで来ると、土手沿いにソメイヨシノの並木がずっと遠くまで続いており、先日の雨で川の流れも滔々と流れており、新緑の芽が出始めた対岸の丘が綺麗です。暫く1kmくらい土手の上を上流に向かって歩くと、右手にチューリップの畑が土手より少し離れて良く咲いているのが眺められます。

丁度、お昼の時間なので、チューリップ畑は後にして、土手の端の草の上に腰を下ろし、オニギリを食べ始めました。その前に広がる川の緑地では幼稚園児が100名くらい来ており、皆が駆け回っています。私は草の上に座り、オオイヌノフグリのサファイア色の花の上に座らないように気を配りながら場所を決めました。

 昼食を済ませ、早速チューリップ畑へ向かいました。そこ

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には黄色や朱や赤や白、一重や八重の花が畝ごとに交互に植えてありました。しかし、その半分くらいはまだ花が咲き出していないのです。更に1週間の後の方が良さそうでした。見物の人々が皆ゆったりと畑の中の細い道を行きます。そして、花の上には5月の鯉のぼりが踊っていました。

案内所の話のように、チューリップ畑では5月に球根を掘り上げて、その後には稲の苗が植えられ、秋のお米の収穫後は又11月には手作業で球根の植付けがなされるそうです。

多くの人たちの手に依り、この畑が見られる優れたサイクルが年々続くことには、それなりに大変な仕事を受け持ってくれる人達の努力の結晶なのでした。


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# by minoru_mogi | 2017-04-13 20:42 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 今年も八王子ワイズメンズクラブの一年で最大の行事であるチャリティーコンサートが八王子北野の市民ホールで、311日に行われました。今年は特に私が実行委員長となり、例年とは何か違うことを考えて、今回はジャズのグループを呼ぼうと思いました。

しかし、そのジャズのグループをどうして探し出すか、また、そのグループがチャリティーコンサートという、あまり報酬が期待できない役を引き受けて貰えるかという不安もあります。

 そこで、私の昔よりの交流のある異業種交流会で知り会った音楽に関する仕事をしてきた遠山氏に、この様な希望にかなうグループが有るか聞いてみました。彼が言うには、今はジャズ演奏のグループは少ないと言うのです。

暫くして、銀座で演奏しているグループがあるので、一緒に聴きに行きましょうとの誘いがあり、会の女性メンバーの小口さんと銀座にあるサッポロ・ビア・プラザに7月の中旬の上旬に出かけ、夜遅くまで聴いてきました。この時の感想では、かなり可能性が有ると思われました。

 我々の大学生の頃であった1960年(昭35)~1970年(昭45)はジャズの全盛期であり、ラジオから何時もそれを耳にしていました。また経済背景も好景気で経済成長率も最大の時代でした。

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11月になり、スイングジャズの5人編成のグループが私達のチャリティーコンサートに出演してくれる事になり、出演料も決まりました。しかし、残念なことに、このグループの演奏を聴く良い場所と時間が合わず、結局これらが叶ったのは、何とコンサート当日の9日前であり、銀座ビアプラザで会の男性5人が行き聴いてきました。私はここで、これなら必ず皆さんが喜ぶ内容であると確信を持ちました。

 コンサート会場は300名席の市の北野ホールで催され、観客は230余名の中高年の方の観客が主に集まりました。

5名の出演メンバーはリーダーの女性のフルート、ピアノ、ベース、ビブラフォン、ドラムスの4人の40代から50才代のメンバーです。会場の雰囲気はとても盛り上がり、観客が楽しんでいることが、私が担当していた音響・照明室からも分ります。2時間の演奏も途中の休憩を含めて、とても短く感じました。

お客さんの中に、盲導犬を連れた2人の女性が来ており、この音楽会が市民の方々に良く浸透していることを実感しました。また、以前、アイメイト協会という盲導犬を育成する協会を援助するべく、川口市の市民ホールで催したチャリティーコンサートを思い出しました。会社を退職後から色々な市民支援活動をしてきたものでしたが、それなりに有意義な時間であったと感じています。



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# by minoru_mogi | 2017-03-19 21:18 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昭和40年頃(1960年頃)アメリカのニュヨークのファッションは世界をリードしており、ドルも高く240円位でした。その頃の百貨店は元気であり、米国から色々な商品を輸入する動きが広がってきました。そんな流れに遅れまいと、私の百貨店でもその動きが出て、百貨店の一番の利益を出していた紳士服部がその尖兵を担ったのです。

 会社は年功序列が当たり前であり、客に自分から商品を売った事がない、電鉄から来た課長と部長がニューヨークに行き、衣料品を仕入れて来ました。もちろん商社である三菱商事のニューヨーク事務所が支援してくれた訳です。

彼らは米国のジーンズやカジュアル衣料を買い付けてきました。ところが、そのジーンズがサイズが日本人の体型に適さず、ウエストが合っても尻回りが大きすぎるのです。また、カジュアルウエアは袖丈が長すぎて日本人には売れません。当時のカジュアル衣料の販売担当係長の私は全く困ってしまいました。値下げをして何とか売りましょうとその上司に相談すると許可を出してくれません。

 これら米国からの商品を買い付けて、ニューヨーク港から大きな木箱(1.5m×1.5m)の幾つかが横浜港に入り、乙仲によって店の商品倉庫に運びこまれました。私は当時は英語は堪能であり、加えてコレスポンデンス(商業手紙)も担当できたので、荷を受け取り開梱をしました。

しかし、数を数えるとインボイスの数字とより少なく、数が57%少なく、抜き取られているのです。

一度などは、作業員の使用するゴム引きの大きな手袋が片手出てきました。

それを調べるべく、輸入業務代行の三菱商事東京に尋ねると、ニュウューヨーク港のマフィアの税金ですよと言います。米国の輸出会社の社長が来日した折に聞いてみると、マフィアの税金ですよと事もなげに言います。

 こんな事が有ってから34年後、係長であった私が紳士用品課長と一緒に米国に買い付けに行き、米国百貨店の事情を勉強に行くことになりました。

私は一計を謀りました。事前に買い付け予定の商品リストを経理担当の役員に提出して、このリストの商品を輸入することでこれだけ利益が出るという計画書を提出しました。しかし、私は米国での契約において、もし何月何日までに船積が出来ない場合、この契約は中止されるという条項を付けました。

そのお陰で半数程しか商品は届きませんでした。また、ニュヨーク港では必ずマフィアの税金の荷抜きが有ったので、商品を西海岸の港で船積みする様にしました。

その結果全く荷抜きは無く、マフィアを出し抜くことが出来ました。


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# by minoru_mogi | 2017-03-12 21:22 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 3月19日の暖かな日曜日、房総半島の先端の千倉まで春の花を見に一日観光のバス旅行に出掛けました。近ツーのバスで5人が手を繋いだマークが車体の横に見えます。

バスの運転手は50歳近くの体格の良い人でした。八王子のJR駅前より出て立川で他の客を乗せて全員で38名の乗車です。

私は実は房総半島には今迄一度しか電車で行った事しかなく、その電車の始発駅は両国でした。館山まで行って、野島崎の白い燈台までしか行った事がありません。そんなわけで千葉県を良く巡ったことはありません。

今回、東京湾を横切るアクアラインの海ほたるを見てみたかったのです。川崎より海底トンネルが続き湾内の中央くらいに海ほたるが有り、初めて見るのです。日本の海底工事のレベルの高さを感じました。


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また、そこよりの景色は素晴らしく、西側には雪の富士山の後方には南アルプスの白い壁のような山並みが望見されます。その上を羽田に向かう航空機が続いています。海ほたるを出て金谷で食事です。驚いたことにここから見える三浦半島は目と鼻の先でした。地図上ではもっと遠くにあると思いましたが近いのにはびっくりしました。千葉側は五井の石油コンビナートの高い煙突から、白い水蒸気が上がり、君津の製鉄所の高炉が目に入りました。

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本来の目的である千倉にやって来ると、案内の写真では一面が花畑と思いきや、道の駅のような「潮風大国」の前の区画のみが小さな畑に区切られて、キンセンカ、ストック、菜の花、矢車草、金魚草、ポピーなどが狭い区画の一面に咲き誇っていました。私は出荷用の花が1種類ごとに咲いているのを想像していましたが、それは外れてしまいました。帰路は日曜日で有ったためか、アクアラインが大渋滞であり大変遅れて八王子まで戻りました。

このバスの運転手さんは大変静かな安全第一の運転であり、惚れ惚れするものであり、私は彼に直接話しかけて「ありがとうございました。今日の運転は惚れ惚れするものであり、私が今まで乗ったバスで最高のものでした」と感謝の言葉を掛けてバスを降りました。

この運転手の方は多分今日の晩酌は美味しく感じたでしょう。しかし、その様な運転をして貰えれば他の人も感謝の気持ちを持って旅を楽しんでもらえると思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-02-22 15:35 | 随想 | Trackback | Comments(0)

庭の梅ノ木  No649

 我が家の庭には会社の友人から貰ったピンクの花の梅の木があり、貰った時は50センチ程の高さでしたが今は根元の直径が20cmくらいであり30年程も経ちます。それを分けてくれた方は3年ほど前に癌で亡くなってしまいました。

梅の花は頭頂がピンクになってから花が咲くまでに10日以上掛かり、木全体の花が咲き出すまでには更に2週間は掛かるようで待ちくたびれます。

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その匂いが花に鼻をつけてかいで見ますと良く分りますが、以前の様に良く匂うとは感じられません。こらは私が高齢になり、鼻の匂いを感ずる細胞が能力が落ちた結果と考えられます。少々ガッカリしています。梅の花は紅梅が先に咲き出すようで、しかも濃いものが最も早く、だんだん薄い紅色に移り、次に白梅が咲いてくる様子です。

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屋外を歩いていると道の脇にイヌノフグリが空の色を移した様なブルーの小さな花を咲かせており、あたりに梅が咲いているとその傍に行って必ず匂いを嗅いでいます。

大寒のさなかですが春は着実に近づいており、今日は節分草の花芽が土の上にちょっぴりと出ているのを発見し、昨年より1週間は早い様子です。この様子では215日頃には咲き出しそうですが、今年はこの頃雨が少なく乾燥しているので生育に影響するのではと少し心配しています。


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# by minoru_mogi | 2017-02-04 21:19 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、新聞の片隅に国学院大学の博物館にて火焔型土器展の案内が載っており、以前より友人からこの博物館は一度見る価値があることを聞いていたので、早速に見に行って見ました。渋谷駅より歩いて15分くらいで大学に到着しました。博物館は大学正門前の立派な建物の1階に有り、ありがたいことに無料です。

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中に入ると独りの方や2人連れの中高年の方が静かに見学しています。入ると直ぐに映像での事前説明が10分ほど有り、それを見てから次の奥へと行くと、そこには立派な40センチもの高さのある火焔式土器が一つ一つ独立して展示してあります。約8千年前から5千年前にかけての縄文中期の新潟県長岡市や南城町を中心に発掘された王冠型土器と火焔式土器が多数展示されています。
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また、常設の展示場では縄文や弥生時代の石器や青銅器、登呂遺跡の木製品などが多数展示されています。このかなり広さが有る博物館は主に縄文と弥生時代のものに特化している感じがありました。

 博物館を1時間程見て校舎の方に行くと、大学正門の大きな2本のヒマラヤ杉の林の中に、神社拝殿があり大学の由来が良く分かります。校舎は高層ビル1棟とその周りに管理棟、や教室棟、学生福祉棟などが大変落ち着いた雰囲気の皆立派なものでした。

その福祉棟に学食があり、そこで昼食を摂りました。最後に学生の行くカフェテリアへと行くと、学生達が沢山おり、その建物の南側の外にあるテラスの休憩椅子に座り、ゆっくりとお茶を楽しみました。


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# by minoru_mogi | 2017-01-26 17:31 | 随想 | Trackback | Comments(0)



 フランス南部のラスコーの洞窟には2万年前に住んでいたクロマニョン人が動物の壁画を沢山遺しています。この地の4万年前頃にはネアンデルタール人がおり、現在の遺伝子分析では、現人類の遺伝子の1.5%位の割合で影響していることが最近判明しました。

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        貝のアクセサリーを着けたクロマニヨン人

その後旧石器時代にいたクロマニヨン人は現在の我々ホモサピエンスであり、アフリカよりヨーロッパへと渡ってきました。

この2万年前前後は氷河時代であり、海面が今より120mも低かったのです。その頃の日本列島はユーラッシャ大陸と陸続きの状態でした。このクロマニヨン人は人類で初めて絵画という芸術を生み出した人々です。その絵画の対象は全部動物であり、彼らの狩の対象となったものです。彼らは芸術として書いたのではなく、別の目的だったのでしょう。

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壁画

この人達は暗い洞窟の中で動物の脂を燃やして、チームでほとんど実物大の動物の姿を描き着色もしました。そしてラスコーの石灰洞窟の壁や天井に多くの壁画を残しました。暗い展示場にはその模写の大きな画像が並んでおり、動物は色々で大変動きのある姿です。

バイソン、牛、馬、山羊、鹿、ねこ科の動物(ライオン、ヒョウ、か判明しません)などです。

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                    骨で作った針

この壁画は1940年に発見され、今は人が入れないように保護されておりフランス政府が模写をして世界の各国に貸し出しているのです。今回は日本がその会場です。

会場には思った以上の見学者が来ており、熱心に注視しています。なかなか素晴らし企画で、もう少しPRされればと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-01-13 20:05 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 毎年、新年の3日から5日の間に近くの大きな神社にお参りに行くことを恒例にしています。今までに行った所は明治神宮・富岡八幡・川崎大師・総持寺・本門寺・大国魂神社・高幡不動尊など、著名なところばかりです。

今年は何処に行こうかと考えましたが、九段の靖国神社に子供の頃一度行った事があり、それを思い出してここへ行こうと決めました。15日の北風の強い寒い日に、家内と2人で出かけました。

戦時中の昭和19年の小学校の1年生の折に母と共に靖国神社へ行ったのです。その時のことを良く覚えているのは、境内の展示館の遊就館に行くと戦闘機の乗員の座席が展示してあり、その後部座席に乗り込み、対空機関銃をいじったのを実に良く覚えています。

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 神社へは九段寄りの大鳥居から入り、大村益次郎の高い所に有る銅像を見て、次の鳥居をくぐり本殿へと向かいます。

寒い日にも拘らず参拝者はかなり多くの人々が訪れていました。本殿の参拝を済ましてから境内の奥にある遊就館へと向かいました。そこでは入口の脇に戦時中に活躍したゼロ戦が展示されていました。

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入場料を払い二階へ上がるとブロンズ製の大砲の筒が置かれてあります。説明によると家康が大阪城を攻撃した折に使用したものであるとの説明がありました。続いて展示場を見て行くと甲冑・兜・刀などの展示があり、明治初期に作られたこの展示場には場違いの感じがしました。

進むに連れて今回の戦争の資料が多くなり、陸軍・海軍。航空機・船舶・潜水艦などの資料と、何処の作戦で敗退したかなど、戦争の悲惨さを思い知らされました。驚いたことに西洋人の見学者がかなりいたことです。

私の身近では父の弟が予科練に居り、航空兵として戦死しましたが、私がいた横浜の家に来て父と一緒にお酒を飲んでいたのを覚えています。1時間半ほど展示物を見て回りましたが、近い内にもう一度独りでもっと時間を掛けて見に来たいものと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-01-06 17:37 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 この夏に百田尚樹の講談社の文庫本2冊の読み応えがある「海賊と呼ばれた男」を読み終えました。このドキュメンタリーの主人公の出光佐三が1代で築いた出光アポロ石油の苦難の歴史と、社員を一切解雇しないという店主(社長)の信念を貫いた会社の経営の物語でした。

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先ず、海賊と呼ばれた男とは、戦前門司で関門海峡で石油の販売を、小船に石油を缶で積み、航路を通る船舶に販売していた行為を見て、あたかも海賊のようなやり方だと評されたのが元になっています。

敗戦後、東京の本社ビルは焼け残りますが、そこに海外へ出ていた社員が沢山帰国してきます。その時に店主(社長)は全員を受け入れ、石油販売業の本来の仕事が無かった折に、GHQ後援のラジオ修理業を興して社員の仕事を確保します。また、一方では戦後海軍の石油タンクに僅かに残っていたタンクの底の石油を人力による汲み出す仕事を請け負い、苦難の石油関連の仕事を見つけました。

その後強大な国際石油会社に対抗して、イランが英国より独立し、イランの石油を英国が輸出するのを封鎖する中を、自社のタンカー日章丸を派遣して買い付け、英国海軍の封鎖の中をマラッカ海峡を通らずに、危険性の高いインドネシアのスンダ海峡を経て、日本へ安い石油を大量に輸入したのです。

現在、昭和石油と出光興産の合併の問題が進行していますが、出光家側が合併に反対を唱えているのは、やはり国際石油に組み込まれないように、日本の民族資本を貫きたいとの思いが見られます。

この映画が封切られて5日後の12月15日に私はこの映画を見て来ました。岡田准一の主演は好ましいもので、映画の一箇所のフィクションが気になりましたが、かなり完成度の高い良い映画でした。出来れば本を読んでから、映画を鑑賞することをお勧めします。


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# by minoru_mogi | 2016-12-24 14:56 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 12月の初旬になるとカエデの赤い紅葉は終わり、山のクヌギの黄色が目立ってきます。クヌギの葉は一度に落葉しないので長い間この景色は続きます。例年のように12月の初旬に静かなクヌギの森を歩いて来ました。

パラパラと落葉が続く森の中では、鳥の声もほとんど無くピイ・ピイというシジュウカラの声がやっと聞こえてきました。また、キツツキ科のコゲラがト・ト・ト・ト・トと樹を叩いている音がしてきました。

お昼の休みには高圧鉄塔の下で暖かいスープをを飲み、冷たいオニギリを2個食べました。下界の音は全く聞こえず、上を行く飛行機の音のみが聞こえて、ゆったりとその場に休んでいました。

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コースの途中に高尾山の薬王院がよく見える箇所が有りますが、そこへ行くと植林された杉の木が大きく伸びて視界をさえぎっています。止む無く山道を下り始めましたが、好ましい薬王院の写真をとる良い場所がありません。

うかい鳥山の近く迄きてしまいましたが、そこで午後の陽に映える薬王院が高尾山の上にと見える箇所へとやっと出会えました。

午後の陽射しの中に静かな森に囲まれた寺が見えています。あの人混みの薬王院がこの角度から眺めると静かなただずまいが感じざれて荘厳さを感じました。

静かな冬の好日でした。


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# by minoru_mogi | 2016-12-17 15:59 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)

 以前より昔の新橋の停車場の姿を見たいと思っていたところ、たまたま時間的に余裕があったので足を伸ばして見て来ました。私はこの場所は今でも貨物用のターミナルとして機能している場所であると思っていたのですが大違いでした。

新橋駅を出て東へ銀座通りへの方向へ5分ほど歩いて行くと、大きなビル群に囲まれた一角に小公園のような木の植え込みがある場所があり、その一角に古い二階建てのビルがありました。その建物に行ってみると、そこが1872年(明治5年)に完成した旧新橋停車場の場所でした。

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そのビルの南側には駅の往時のプラットホームが復元されており、そこには0哩標識が有りました。この建物では丁度日本の蒸気機関車の歴史の展示会をやっており、蒸気機関車の写真展というところです。ゆったりと時間をかけて各種の説明文を読み、機関車の模型に見入りました。
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さて、家への帰路は、近くに地下鉄大江戸線の汐留駅があるので、その駅を目指しましたが、地下の通路に入ると広々としており、方向感覚が無くなりやっと地下鉄の汐留
駅にたどり着きました。嬉しいことにこの地下鉄は都民でシルバーパス(70歳以上 年間20,500円)が有ると無料で乗ることが出来ます。新宿新橋間はJRで200円でありそれが只で乗れるのです。汐留から新宿へ出て、直接京王線で北野へと戻りました。

 このシルバーパスのお陰で私は家からバスに乗り都心へ良く出かけます。特に上野の国立科学博物館、国立西洋美術館、国立博物館は特定の催し以外では70歳以上は無料であり足繁く通っています。また都営地下鉄が無料であるので、大江戸線や新宿線に乗ることが多いのです。

その様な訳で、70過ぎの老人が外に出かけることは健康維持のためにも、刺激を得るためにも大きな意義があると思われます。おそらくシルバーパスの1年の20,500円を私は3倍近く利用しているでしょう。最高の利用は武蔵五日市駅よりバスで都民の森まで往復すると1,800円掛かりますが、これが無料なのです。

都民であって本当に良かったと思っています。


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# by minoru_mogi | 2016-12-09 20:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 関西の紅葉の名所である京都の三千院や寂光院はその季節に行き、紅葉を堪能しており、東福寺は新緑の折に行きましたが鞍馬寺や貴船神社はまだその機会がありません。

奈良では東大寺や興福寺、春日大社などは何度も見ており、かなり奥地の浄瑠璃寺や岩船寺、当麻寺も訪れています。

しかし、以前より行ってみたい所であった桜井市の談山神社へはまだ行っておりませんでした。そこで、今回の奈良旅行の折に、たまたま桜井市の大和八木駅近くのユースホステルで2泊したので、従来は3日目は卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳に行く最初の予定を変更して、時間は掛かるが是非とも見ておきたい桜井駅からバスで山の中に入る紅葉で有名な談山神社へと向かいました。

電車で桜井駅へ行き、朝9:10発の臨時の最初のバスに乗り、山間部に分け入り、長く続く杉林を抜けて山中の神社へと着きました。バス停から神社の入口は離れており、途中は門前の土産屋が続きます。

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 神社は全体が南向きで、山門を入ると急な100段位ある石の階段が真っ直ぐに登っています。その両側には紅葉したカエデが赤々と陽光を反射して光っています。この境内は3段になっており広い敷地には各所に立派な建物があります。この神社は日光東照宮の手本になつたそうです。

ここは藤原鎌足が祭られており、この山の山腹に墓所があります。最も高い所の御本殿のある近くに、木造13重の塔があります。高さ17メートルで檜皮葺きのもので、1532年に再建された重要文化財です。神仏習合時代の名残であり神社のシンボルです。

境内の庭にはモミジが沢山植えられており、美しく紅葉のピークであり、1本あったイチョウの黄色が目だっていました。約2時間を見学に過ごして、急いで桜井駅に戻り、更に奈良へと出て、楽しく充実した3日間の旅となりました。


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# by minoru_mogi | 2016-11-29 12:09 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 この111416日にかけて、奈良旅行に1人で行ってきました。私は奈良の地は大変よく知っており、殆どの寺社仏閣はすでに歩いており見てあります。しかし、近年になって発掘された平城京の遺構を見ていないことと、初めて今迄経験のないユースホステルに泊まってみたいというのが目的でした。

 JRの奈良駅よりは、小雨のぱらつく中を朱雀門へと1時間近く歩き、やっと草原の中にこつ然と聳える朱色に輝く朱雀門に到達しました。

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                       朱雀門
雨の中とあってか観光客は私一人です。この門より内側は宮殿部分であり、その最大の建物である大極殿ははるか北のほうに1kmくらい先に見えています。その間は何もない草地の空き地でした。その敷地はほんとに広大であり、南北1km、東西2kmというところです。そして今はススキの生えた原であり、そのススキは綺麗に刈り込まれていました。宮廷部分がこれほど広いとは思いの外でした。

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              大極殿

 大宝律令が701年(和銅1年)に制定され、710年に今までの藤原宮(694700)から、たったの16年で都の地がこちらへ移ってしまったのです。そして北へ20キロメートル程のところに平城京が開かれたのです。そして平城京は74年続きました。

その朱雀門の前には路面幅70mの朱雀大路が南に3.8km続き、そこには羅城門がありました。その道幅は普通の大通りでも24メートルありました。この国際的規模の都には、礎石柱に瓦葺や、唐風建物や桧皮葺きの和風住宅があり、1520万人の人々が暮していたようです。

 翌日は朝から大極殿を見て回りました。この王宮の建物は実に立派な二層の建物であり、高い基段の上に築かれ朱色に塗られており、王座がすえられています。屋根の上には左右に大きな鴟尾(しび)が飾られており、中央には金色に輝く金属の飾り物が載せられてありました。そこには小学生の子供達が見学に来ていました。

 藤原宮が何で16年で移ったかは謎で有るのですが、その建物の瓦などは平城京朱雀門にも再利用されたそうです。

この平城京は国の文化庁の元に復元工事が進んでおり、今日も各所で発掘が続けられていました。


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# by minoru_mogi | 2016-11-20 10:33 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、新聞の記事の中にルースホステルのことが書かれてあり、昔若かった折に是非とも利用してみたかったのですが、時間とお金を山登りに費やしてしまい、ついぞ今迄泊まったことは無かったのです。

たまたま、奈良で是非に見たいところが有ったので、今回奈良近郊のこのあすかロードのユースホステルに泊まることにしました。奈良市内には大きなユースホステルがあり、200名収容ですが、そこでは食事が付きません。また、大変混雑しており、先々まで予約が取れません。そこで、近郊の大和八木にあるこのホステルにしたのです。

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                 ユースホステル「あすかロード」

そこは大変こじんまりした宿で、定員15名で4室あり、4人部屋23人部屋2の配分です。この宿は朝夕の食事が付いて、会員外の私が泊まって2泊してもたったの10,900でした。

 問題はその4人部屋ですが、若い人と一緒で楽しいものと期待して行ったのですが、あにはからんや、同室者は70代前半の男2人と30代の1人の若者でした。まるで、ユースホステルでなくオールドホステルです。やどの方に後で聞いたのでは、今は定年後の一人旅の男性が多く、若い人は少ないのだそうです。外国人の同室者がいたら楽しいと考えていたのですが、これも外れて日本人ばかりでした。

夕食のテーブルには70代の男3人と同年代の女性1人と若者で札幌から来た人の5人でした。他に食事を外でした人がおり、全部で男5人女2人の合計7人が宿泊していました。

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                 宿の近くの耳成山
 最近は宿泊者が大きく減ってきていると言います。2日目の夜は宿泊者が私ひとりとなり、食堂で鮭のホイル焼きと缶ビールで静かな夜となり、日本とサウジアラビアのサッカーに見入りました。

本来の目的の観光では平城京の朱雀門や大極殿、左保路、佐紀路を歩き、古墳や古寺を見て回り、3日目には、かねてから行きたかった奈良桜井の山間の奥地の談山神社のカエデの素晴らしい紅葉の中を快晴の空の下の元に堪能して来ました。


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# by minoru_mogi | 2016-11-17 12:57 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 江戸東京博物館の「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」と時を同じくして国立科学博物館でもシーボルトの収集した日本の植物・動物・鉱物の展示会があり、先日江戸東京博に続いて行ってきました。有りがたい事にこの博物館の常設展示場には70歳以上の人には無料なのです。大変得した気分でした。

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 先ずは彼の研究の目的であった植物の標本と、その植物を日本の絵師に描かせた詳細なスケッチ画があり、それらは必ず花の断面図や花柱、雄しべ、雌しべの位置等が細かく同じ画像に記してありました。彼は医師であると共に、新しい有用植物を見つけることも任務の内だったのです。

その植物採集をしている写真がありましたが、その採取に使う道具は今と全く同じで、金属性の長さ50cm、幅25cmの肩から掛ける「胴乱」(植物採集用のかばん)を使用していました。

日本の花々、特にあじさい(日本のみの植物)、百合の花、中でも鹿の子ユリ、鉄砲ユリ、すかしユリ、等は素晴らし絵が残っており、オランダでそれらのユリは大変な高価で取引されたそうです。

 動物はほとんど剥製にて持ち帰られており、往時の日本の技術は進んでいたものと思われます。鹿や熊、猪、狸、日本カワウソ、ムササビ、やネズミの種類までありました。

鉱石の標本では黄鉄鉱や他の鉱石が有りましたが、金鉱石や銀鉱石の標本はありませんでした。やはり彼は大学で医学の他に植物学、動物学を学んでいましたが鉱物学は学んではいなかったようです。楽しい科学博物館でした。


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# by minoru_mogi | 2016-11-09 17:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

孫達と高尾山へ No638

 私自身は子供の頃、幼稚園の年長組のときに、横浜から高尾山に父の会社三井物産の横浜支店の遠足で行ったことがあります。会社の人達と父と一緒に東横線の反町駅より菊名乗換えで高尾駅に行き、駅から山麓まで行き、全部歩いて山頂まで登りました。

山頂では御汁粉が食べられると励まされて山頂に着いた時には、御汁粉はもう無くなっていました。

この時昭和18年(1943)は戦時中であり、ケーブルカーは電力の節約のために止まっていて、土の道の階段状の山道を登りました。この時期は4月末頃でした。というのは、山道の脇にオキナ草の花が沢山咲いていたのです。白い毛の生えた葉と、下向きに咲く赤い血の色をした花が不気味に感じました。子供の私が山頂に着いたのは一番遅れた組でしたが、会社の大人達が褒めてくれたのを覚えています。

 孫達は小学4年生と1年生、一番下は年長組です。そんな訳で孫3人とその母親2人と家内と私の7人です。電車で高尾駅へと行き、そこから歩き始めて高尾山への昔の登山道の明治41年の碑を見ながら、土の登山道を登りました。
孫達の足は速く、もちろん私が一番ビリでした。曇りの天気でしたが、汗が吹き出して下着が直ぐに濡れてきて、息切れもして大変です。子供達は汗すらかいていませんでした。

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4号路を経て山頂の直ぐ下に2時間半掛かってやっと着きました。芝生の広々とした所にレジャーシートを敷いてお昼ご飯です。子供達はお腹が空いたとオニギリを美味しそうに食べています。

土曜日とあって京王高尾山口から登ってくる人達はぞくぞくと続いています。しかし、私たちが登ってきた山道は殆ど人に会わず、降りの人が数人降りてきただけでした。

食事が済み、今度は山頂へと40mくらい階段を登り山頂へ出ました。そこは人だらけであり、300名から400人もの人達で、広場の土の上にレジャーシートを広げてお昼ご飯を食べています。とても山歩きを楽しむなどという状態ではありません。まるで遊園地か行楽地と言うべき有様です。帰路は1号路の舗装された道を下り、リフトに乗り楽をして降りました。

今回の高尾山は子供達は初めてであり、きっと大きくなっても良く覚えてくれているだろうと、山好きの私は期待しています。


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# by minoru_mogi | 2016-10-23 11:37 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)

 この7月から是非訪れてみたいと考えていた所ですが、7月・8月・9月と体調が優れず、とても回れそうになかったのですが、10月に入りやっと出掛けて行けそうになったので、思いきって出掛けてみました。

三島までは新幹線で行きましたが、駅より湧水地までのバスが30分以上に1本というところでした。柿田川湧水公園に着いたのはすでにお昼であり、時間を節約するために持参したサンドイッチを公園内のベンチで食べて、近くのレストランで食事をする予定を変更して行動することにしました。

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公園内を進んでゆくとハケのような河岸段丘のような斜面から各所に水がこんこんと湧いています。また、池の水面の下からは、勢よく水が吹き上げています。それらが集まった川の中にはバイカモが水面近くまで茂っているのが見えます。

この水の源は富士山の伏流水で、山に雨が降ってから10数年をかけて地中を流れてきて、この地で地上に湧き出ている訳だそうです。水は全く透明でそのまま飲めそうです。湧水の脇には山葵の葉が茂っています。また、川の横にはツリフネソウの紫の花が丁度咲き出していました。ゆっくりと水辺を歩き、早い川の流れを眺めました。

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市の観光地図を見ますと「街中がせせらぎ」とあり、市内には沢山の湧水地が有るのが分ります。大変残念なことに、来る際は駅に降りてバスに乗るまでに、駅の観光案内所が見つからず、地図などを入手することが出来ませんでした。

帰る時にバスを降りる際になって、その案内所を見つけてやっとパンフレットと地図を入手したような訳でした。

そこには、スマートフォンで公園で確かめたグーグルの地図にはない水辺の遊歩道の案内が載っていました。グーグル地図は細かい案内には向いていなかったのです。

今回は少し時間が足りず、広く周れなかった所を、もう一度来年の夏に見に行こうと心に決めました。天候にも恵まれた充実した一日となりました。


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# by minoru_mogi | 2016-10-13 11:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 9月末に、家内の田舎である上田市郊外の青木村にある、家内の実家のリンゴ園の手伝いをしてきました。たまたま,今年の秋は雨降りの日が多く、私は4日間働きましたが、その内空が出た日は1日だけであり、あとは雨と曇りばかりで役に立ちませんでした。

その6日間では7人の人達が作業に携わり、本家の夫妻と東京からの息子夫妻、その嫁の弟さん、私と家内の7人でした。


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作業はリンゴの実の周りの日を遮っている葉を10枚くらい手で摘むのです。地上から手の届く所は良いのですが、上の方の実は脚立を立てての作業であり、脚立の移動等もあり、作業は遅々として進みません。リンゴ園には250本程の樹が有り、種類の中心は富士ですが、他に津軽、秋映、信濃ゴールドなどもあります。作業は全くもって能率の悪い手作業です。
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 近くの田んぼからエンジン音が聞こえてきました。丁度、昼食にもどるところでしたのですが、そのコンバインでの稲刈りの作業に足を止めて見学しました。田んぼは縦横60くらいの広さで、1ヘクターアルには欠けるものでしたが、「この田んぼでどの位の時間で刈れますか」とそこに居た指導員とも思える年配者に尋ねたところ、「30分くらいです」との返です。ただしこの機械の運転している人は、145年の経験がある大ベテランだそうです。作業はあまりの速さに驚きでした。もし作業員4人で鎌で刈ったとしたら1日作業でしょう。コンバインは藁は切り刻み、もみは落とされ、パイプで籾袋に入れられます。

この三菱農機のコンバインは5条刈の大型機械であり、村の稲刈りを代行する組合で、同じコンバインを5台有していると言います。この村の田んぼは区画整理をして、田んぼ1枚を大きくしてあり、1アール位が平均です。

午後になるとその機械にで別の田んぼの稲刈りを続けていました。この様な機械化できるものは大いに能率が上がりますが、リンゴの葉摘みは全く非効率です。何とかならないかと思いましたが、無理のようです。

また、来年もこれをやるのかと思うと、気が重くなります。


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# by minoru_mogi | 2016-10-04 19:27 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 今回のこの展示会に大変期待をして見に行ってきました。開催後4日目とあってかなりの混雑をであろうと思い入場したところ、全く予想に反して入場者は少なく驚きました。多分、当日の天気が悪かったことと、平日であったことが原因かと考えられます。

 

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シーボルトはオランダ人でなくドイツ人です。彼は医師の家に生まれ医学、植物学、動物学を学んで医師となりました。そしてオランダ陸軍に入り、先ずジャワに来ました。翌年オランダ商館に1823年、27歳の時に来日したのです。

幕府は長崎出島の外国人がその地を出ることを極力制限しました。しかし幸なことに商館長が江戸の徳川家斉へ参府の表敬訪問することになり、その折に医師として同行する機会に恵まれました。そしてその時には日本人の絵師川原慶賀を同行させて、景色や植物画などを描かせています。

 今回はオランダのアムステルダムとドイツのミュンヘンの博物館から里帰りした、日本の江戸時代後期の品々を300点ほども展示してありました。そこには大きな花鳥図の衝立や、お祭りや普段の衣服、食器、漆器、他の生活用具が多く、私の目を引いたものでは、長さ50センチはあるカツヲ全身の酒宴用の塗りもので、腹が開き蓋物でした。この様なものは江戸時代の人達はユーモアがある人が多かったのでしょう。

彼は日本の品々をオランダに送ろうとしましたが、その中に禁制品の日本地図があり、それが見つかって1827年に国外追放となってしまいました。その頃間宮林蔵が樺太の探検を終えて地図を作り、その写しもありそれも見咎められました。長崎の商館では日本の茶の樹の種をジャワに送りジャワで茶を育成して紅茶となりました。

彼は帰国後オランダとドイツで日本に付いての博物館を作り、多くの日本についての本を発行します。

20年後の幕府の鎖国解放に依り、追放が解けて再び1859年に来日して、18601年間江戸で幕府からヨーロッパ学問を教えることを頼まれました。1861年に帰国して1866年にドイツで没しました。


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# by minoru_mogi | 2016-09-20 19:16 | 随想 | Trackback | Comments(0)