山歩きとそこで出会う花たちへの思い


by minoru_mogi
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 大学の秋の学園祭の折に、大学主催のOBOGのホームカミングデーがありました。その前日、私の家に長い間会っていない昔の同じゼミ仲間であった友人から電話があり、明日の大学の行事に出席するかと聞いてきました。私は毎年何か支障が無い限り出席しており、もちろん出席の旨を伝えました。

彼は昨年奥様と共にその会に出席したそうですが、私と会うことが出来ず残念であったと言います。大学のホールで行われる歓迎会では約800名の参加者ではやはり難しかったと思われます。また、行く時は自分は杖を突いてゆくので直ぐ分るだろうと言います。

 当日、大学へは開催時間より30分以上前に行き、彼の来るのをホールの前で待ちました。駅より彼はタクシーで来ると言いましたので、その方向から来る人を見ていましたが、1人の人がステッキを持って軽い足取りで来る人がいましたが、痩せており、体の大きな彼ではないと判断しました。開会近くになると杖を突きながら来る人が何人も居ます。しかし皆彼ではありません。定刻少し前になりホールの入口に行くと、さっき見た杖を持った人がポッンと立っています。

そこで、その方に○○さんですかと声を掛けると、そうですとの返事であり、話す声が昔の彼だったのです。学生時代95キロもあった体重が今は65キロであるとのことで、あまり痩せており全く分らなかったのです。

お互いに「声だけは変らないな」と言い、私は薄い頭髪に手をやりました。彼とは結婚式が神田の学士会館であったことを覚えていますが、その後の交流はありませんでした。

正に50数年ぶりの再会であり、同じゼミにいた仲間の話題になりました。同期の中にも既に鬼籍の人もおり、私も年齢的に衰えを感じざるを得ません。

お互いに現況報告をして、彼には子供がいないそうで奥様と二人で大泉学園にいることを話しました。二人でホール内の椅子に腰掛け、ビールと料理を手に持ち、話し込みました。

すると話題は一気に学生時代の背景の中に引き込まれた1時間となりました。

会の終わる少し前に会場を出て、国分寺の南口までその頃の通学路の話をしながらゆっくりと歩み、国分寺駅では北口再開発の工事中の高層ビルを見て、昔の昭和30年代後半の中央線の三寺の賑やかな時代が再度来るものかと願いながら別れました。

来年もまた会い楽しい話題に耽りたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-11-08 17:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 来年の5月、大阪の人々と旅行会を予定しており、その候補地の一つとして三島市にある2年前に出来たスカイウオークを下調べに行きました。

吊橋といえば、数年前に高野山へ行った折に、新宮市からバスで奈良県の十津川村にある300m程もある吊橋を見て渡ったことあります。この瀬谷の吊橋は熊野川の上流であり十津川となります。60m程下には十津川の清流が流れており、そのコバルトブルーが大変美しい色を発していました。これは川向こうの集落の人達が自分たちが費用の大半を出して作られたと説明がありました。その橋は集落の人達が渡り、車椅子での使用もあります。

渡って行くと中心部では大きく揺れて大変でした。しかも渡橋料は無料でした。それでは少し申し訳ないので、橋の袂にあるティールームで都会の料金並みのコーヒーを楽しみ、少しでも村の経済にプラスになるように努めました。

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 ところが、今回三島市の外れの箱根行きのバスで行く大吊橋三島スカイウオークに行ってみると、橋の対岸には家は全くありません。しかし、その場所から眺める富士山は端正な姿を見渡せ美しく、左に愛鷹山があり、更にその左には南アルプスの赤石岳、悪沢岳が雪で真っ白な山稜が目に入りました。相模湾を見ると三保の松原まで目に入ります。

橋は400mで高さも76mですが、足下には小さな渓流が流れています。確かに大きな吊橋ですが感動するものがあまりありません。偏に富士山を望む展望台だけです。家に帰り調べてみると、これは地元のフジコーという私企業が作ったもので金儲けの手段でした。しかも、橋を往復するだけで1000円も支払うのです。

三島駅から東海バスで行きましたが、バスは1時間に1本であり超満員で立っていると登りカーブで大変でしかも25分以上掛かりました。その中には中国人の4人家族もいましたが席に座り写真ばかり撮っていました。

帰りはバスを三島大社で降り参拝して門前町を歩くと、正午頃でもあったのでうなぎ屋の店先には多くの順番待ちの人達が並んでいました。やはり三島はうなぎが有名でした。

午後は駅前の楽寿園から湧水の流れに沿って源兵衛川を水の苑緑地まで歩き湧水の町三島を充分堪能しました。


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# by minoru_mogi | 2017-10-30 14:19 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 秋田市には二度目であり、前回来た折には団体旅行の一人であり、他に寒風山などにも立ち寄った記憶があります。その折は秋田キヤッスルホテルに泊まったので、久保田城のお濠の脇を散策したのを覚えています。秋田市には他にも秋田城跡があり、平安時代から北方の民族に対する備えの館跡であり、その地の秋田城跡歴史資料館もある様子です。

駅より近い久保田城は1602年関が原の戦いの2年後に、常陸54万石より出羽20万石に転封された佐竹藩がこの地に平城を築いたものです。

しかしこの地は丘であり石の城壁はありませんが濠は備わっており、本丸、二の丸、三の丸も備わった広い敷地でです。現在は千秋公園となっており、その名称は佐竹家より秋田市にその土地を寄贈された時に名づけられた様子です。現在は城内は市民のための公会堂や図書館、佐竹資料館などがあり、市民が散策していました。

本丸へと上って行く石段には往時の正門(一の門)が市制100周年折に再建されており、大変立派なものでした。本丸の跡には佐竹義堯(佐竹氏12代藩主 敷地を市に寄贈)の高い銅像があり、そこより更に北に行くと「北隅櫓」が立派な姿を見せています。

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久保田城北隅櫓


その櫓内の展示場と最上階展望階より市内を眺めました。城址をゆっくり3時間近くかけて回り、夕刻ホテルへと向かいました。

このホテルは駅からかなり離れており20分近く歩いてゆきました。そのビジネスホテルには温泉施設があり、宿泊者以外にも一般の人が温泉を楽しむ施設がついていました。

宿泊者は自由に温泉に入れますので、食事前に風呂へゆくと、その湯船の色は薄口醤油のような色をしており、匂いはありませんでした。宿の人に聞くとこのあたりは温泉が出ており、33度くらいで湧出しており、少し加温しているとのことでした。

翌日の東京への新幹線「こまち」は快適で晴れていた空は仙台辺りから曇り、東京に近づくと雨になりました。今回の旅では天候には恵まれない少し残念な旅でした。


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# by minoru_mogi | 2017-10-25 19:23 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 青森と秋田へは定年直後の旅行で、19年前に三内丸山、十和田湖、八幡平、鹿角、岩木山、小岩井などを巡りました。しかし、日本海沿いの海岸線は見たことが無かったので、今回、青森から秋田まで五能線に乗ってみました。五能線とは五所川原から能代までを言うことを直前に知りました。

8:10分に青森駅を出た4両編成の列車は、弘前を経て五所川原へと向かいます。その近くになると沿線はりんご畑が続き、収穫前のフジがたわわに枝に生っており、車内からとれそうな近さです。私が知っている長野県のりんご畑は、樹が一直線に並んでおり、そこに針金の支柱が立ち、樹高は4メートルくらいあります。それに比べてこの青森のりんごの樹は低く横に枝を伸ばし、その樹は並んではいません。また。樹は大きなものが多いようです。

この日は朝8時頃まで雨が降っていましたが、9時頃より少し空が見えてきました。五所川原では青空が広がり、車窓からは岩木山が良く見え、その中腹まで黄葉が降りてきています。少し驚いたことには稲がまだ刈り終わってないことで、関東では殆ど刈ってありました。稲の黄金色と岩木山の黄葉は大変美しい景色でした。


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  岩木山

この列車は「しらかみ2号」の急行ですが、単線区間でもあり停車駅も多く、鯵ヶ沢や十二湖駅などにも止まります。車内は乗客も割合に少なく、定年退職旅行と見られる夫妻や台湾からの若い4人連れ、外国人の夫妻、他は3040人ほどの日本人でした。車内で津軽三味線の二人による演奏もありました。団体客が途中で乗り込みどっと降りたのは十二湖駅でした。そこからは白神山地へ行くようです。時間と日にちが有れば是非寄ってみたい場所でした。


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   大荒れの日本海

 電車は海岸線に沿って走りますが、その日は北風が大変強く、海は大荒れであり波高は3~5メートル位はあり、その風の影響から列車は何度も止まりました。沿線には風力発電の塔がかなり沢山見られました。秋田市に近づくと黄金色の田んぼが半分程刈り取りが終わっており、風も治まり時折陽射しのある良い日和となりました。


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# by minoru_mogi | 2017-10-19 13:39 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 以前、約20年前にまだ発掘中の三内丸山縄文遺跡を家内と共に見学に訪れたことがあります。その時は発掘された出土品はまだあまり良く分類されておらず、バラックの様な簡易展示場で土器、石器、矢じり、石槍、土偶、などと共にヒスイの飾物などを見ました。

その時はまだ敷地内で多くの中年女性や男性が一箇所で腰をかがめて地面の発掘に携わっていました。そのすぐ横には青森県が進めていた野球場のコンクリートの観客席が半分出来かけていたのです。

しかし、この遺跡がどれ程大切な物かが分り、野球場工事が中止となり、今回みると全くその跡が残っていませんでした。

残念なことに今回訪れた10月11日は雨の寒い日であり、新青森駅を降りるととても寒く、13度であり、タクシーに乗ると暖房が入っておりほっとしたものです。

遺跡に着くと直ぐ前に立派なコンクリートの2階建ての大きな展示館と併設されたレストランがありました。驚いたことに同館の入場料は無料であり、ロッカーの使用料も同じでした。
丁度
1330からボランティアガイドによる説明があるとのことで待っていると、そこに若い女性のガイドさんが現れました。当日は雨でもあり入場者は極めて少なく観光バスは全く止まっていませんでした。


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ボランティアガイドの女性 左

私は色々な所でボランティアガイドの方々の説明を聞いていますが、ほとんどの所で定年リタイア後の人達ばかりでした。今回は20代後半の若い方でラッキーと思っていましたら、一緒にそれを聞く方がやはり若い女性でした。

20年前に来た時と異なっている追加された新しい施設は、土器を集中して捨ててある場所の展示施設と、子供を土器に入れて埋葬した展示室でした。

遺跡の6本の大木の古代モニュメントはいまだその目的は分りませんが、今は日本国内にはこの様な大木は見つからず、ロシアのソチから運んできたものだそうです。その直径は1メートル以上でした。この遺跡は5500年前頃から始まり、4500年前頃にピークとなり、その頃約100戸の竪穴住居があり、500人ほどの住人がいたと推定されています。当時は地球の温暖期であり、気温は今より2~3度高く、樹木も針葉樹ではなく広葉樹が中心であったのです。海水面も今より高く遺跡の近く迄湾が入っていたのでした。

新潟県のヒスイや北海道の黒曜石などが出土しており、海路での交易が盛んだったことが分っています。往時の交易の中心であったのかもしれません。

今後、もう一度行くことはないと思われますが、縄文の時代を良く理解出来る旅でした。


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# by minoru_mogi | 2017-10-14 16:27 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 江戸時代、50歳で仕事を引退してから自分の研究している暦学(天文学)を活かして日本地図を作成した偉人の足跡を是非見たいものと思っており、まだ少し暑い日ではありましたが、思い立って千葉県の銚子に近い香取市の佐原へと、朝少しばかり早く起きて出掛けてきました。

先ず躊躇したのは、そこまで行くには八王子からは電車では4回乗り換えて4時間近く掛かることです。家を8時頃出ると12時過ぎにやっと佐原駅に着くのです。東京駅から高速バスも出ていますが、好ましい時間には出ていません。しかし、今行かないと今後行ける機会が無くなりそうに思えるので決心して出掛けました。



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庄屋の建物のような佐原駅


 ご当地の記念館には彼の人生の商人としての歴史が大変良く紹介されています。その業績は15年間で売上高を約5倍に拡大していたのです。そして、商人の時から天文学を勉強しており、50歳で江戸へ出て天文学者のところで更に励みました。当時彼が使用していた望遠鏡が展示されていましたが、国産のの3メートルもある屈折望遠であり、木星の衛星を見ていたということは驚きでした。

 彼の日本地図作成の旅は10回にも及び、最初は7名くらいでしたが毎年参加人員が増えてゆき、多い時には15名くらいと公儀からの参加者が加わったようです。その出来上がった日本地図は現在の地図と比較しても、ほとんど同じであり、少し経度がずれているだけでした。

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記念館前の川沿いの古い家屋

展示されていた日本地図は、以前国立博物館で目にしたことがあり、珍しい物ではありませんでしたが、交通機関の無いに等しい江戸時代としては大変であったと思われます。

彼は当時としては長命であり73歳まで存命しましたが、日本全図は彼の死後数年後に完成しました。

シーボルト事件でこれら日本地図が国外へ持ち出されそうになり、幕府はこれを禁じシーボルトを国外追放したのでした。

彼の隠居後の功績は大変素晴らしものであり、その情熱には全く頭が下がります。老人であってもこの様な新しいことに対する持続する情熱は是非とも欲しいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-09-27 19:09 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 高尾わくわくビレッジのワイズガーデンには、77日にワイズ仲間の多河さんと家内と私3人で、ホームセンターでインパチェンスの苗を買って、20株ほどを間隔を空けて植えつけてきました。

夏の間は暑さが大変なので、花は咲き続けているものと思いましたが、雑草取りは出来ませんでした。
9月もお彼岸近くになりかなり涼しくなつてきたので、その後の花の状態と、昨年から球根を埋めてあるマンジュシャゲの花が、丁度咲いている頃と思い、9月の20お彼岸の入りの日にそれらを見るべく高尾へと出かけました。

高尾駅からは彼岸の入りということで、霊園へとバスの急行便が出ており、それを終点まで行くとグリーンタウンのわくわくビレッジの入口まで行きます。

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ビレッジに着いて直ぐにガーデンを見に行くと、7月に移植したインパチェンンスが3倍ほどに大きくなっており、4色の花々も大変よく咲き誇っています。

今迄何度も色々の花を植えてみましたが、夏から秋の花としてダリアやサルビアも上手く育たず、南側にある建物で日光が遮られて日照不足から失敗を重ねた場所なのです。

しかし、それが今回の花は日陰を好む花だったので、上手く適応していたのでした。また、マンジュシャゲ(彼岸花)は咲いてはいましたが盛りを過ぎており、30本ほどの花の茎が目だっていました。

テレビでは日高町の巾着田の映像が出ており、満開の花の中を天皇と皇后が歩いて楽しんでいる姿が放映されていました。

15年ほど前になりますが、私が企画してこの巾着田のマンジュシャゲをワイズの仲間20人ほどで訪れ、よほど暑い日であったからか、店でかき氷を多くの仲間と味わったことを昨日の事の様に思い出しました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-22 16:20 | Trackback | Comments(0)

 私には子供の頃の写真は殆ど有りません。戦時中だったので皆余裕がなく、とても写真など撮って貰えませんでした。残されたただ1枚といえば、父と一緒に横浜の桜木町近くの橋の上で撮られたもので、下駄履きに半ズボン戦闘帽をかぶっている5歳頃のものです。

 そこで子供の頃の思い出が残っていないかと思い、横浜の戦時中の繁華街を訪ねてみました。桜木町に下車して野毛山の市営動物園へと先ずは向かいます。

野毛山公園への道を行き、野毛坂にかかると、私と同じくらいの男性2人が前を行き動物園を目指しています。しかし、その1人が急坂に耐えられず直ぐに休みとなります。とても動物園までの坂を上れそうではありませんでした。

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公園に沿って上がって行くと、睡蓮が咲く日本庭園がありました。水の上にはシオカラトンボが舞っています。更に上って行くと動物園の入口に着きました。財布を出して入園料はと見ると一般の人園が無料でした。

動物園は今は象と白熊は居らず、キリンやシマウマ、ライオン、トラなどがいますが、大型獣でも狭い獣舎で可哀想になりました。割合と広い園であり、大木が多いのですがアップダウンがありなかなか大変です。入園者は5歳以下の子供ずれやベビーカーの若い夫妻が多く、次に多いのは若いアベックの人達でした。園を出てから水道山の見晴らしポイントへ行って見ましたが、そこからはブリッジやタワー、パシフィコ、ランドマークタワーは良く見えますが、海は全く見えません。

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 そこからは今度は南に山を降りて30分くらい歩いて伊勢崎町へ出てみました。しかし、街は賑やかで人通りも沢山有りますが、あまり綺麗でなく昔のイメージは有りませんでした。

この街中を歩いていると、昔子供時代に来た松坂屋が昔のイメージどおりあり、今は百貨店では無く色々な店が入っているテナントビルとなっていました。また、通りの南側には有隣堂書店があり、この2店のみが戦時中からの生き残りのものでした。

結局、伊勢崎町の記憶は確かでしたが、野毛の町と動物園の記憶は出てきませんでした。

そして、入学前に遊んだ友達の顔をうっすらと思い起こしました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-06 16:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

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 この映画には私は大変関心があり、826日の封切り後7日目に府中に行き見てきました。最初に感想を述べると、この映画はその歴史的な背景を良く理解していないと、十分には楽しめないと思います。

この天下分け目の1600915日の1日の戦いは、秀吉が伏見城で生涯を終えたことに依り、後を継ぐ秀吉の子供である秀頼が幼少であり、その跡目を誰が継ぐかに懸かっていました。秀吉の朝鮮出兵は1592年からであり(文禄の役、慶長の役)1598年秀吉の死により兵を引きました。

この関が原の戦いはその2年後に全国の大名が参戦して戦われた、正に天下分け目の徳川家康と石田三成の戦いであったのです。私見では、それらを理解して映画を見るには、もう一度映画館に足を運ばないと、とても十分に理解出来るものではありません。

 映画の中では家康役の役所広司が実に上手い演技で目立っています。石田三成役の岡田准一は西軍の総大将として、他の西軍の将の支持が十分ではなく、戦いの中で小早川の寝返りと、毛利藩の軍勢が戦いを静観、さらには島津藩の動静等、絶対的な支持の無さが戦を決めました。

戦いの場面はかなり長く、多分、島津藩の敵中突破が大々的に出るかと思いましたが、それには全く触れていませんでした。西軍総大将の石田三成は各将の参戦を戦いの中で必死に呼掛けますが、各将はこれに呼応せず、西軍の83,200の兵と東軍の89,000が互角には戦えず、東軍の勝利に終わったのです。

 石田三成は自国の近江に逃げ延びますが、自害はせずに最後は自首して、京都の三条河原で処刑されます。映画の中では忍びの者の挿話が出てきますが、原作の司馬遼太郎の話の中に有るのでしょうか。私としては、あまり意味の無い挿話に思えます。

見た後の感想としては、確かに大作であることは認めますが、クライマックスを感じる場面はありませんでした。さて何点を点けたら良いのでしょうか。

再度、この映画を見直して、初めて点数を付けたいと思いました。


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# by minoru_mogi | 2017-09-01 21:17 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 雨続きで病院に行くことだけが予定の日々に嫌気がさして、何か前向きになることはないか考えました。色々考えた中で、新宿の歌声喫茶「ともしび」に2年振りにでも行けば気分も少しは晴れるのではないかと、曇りの17日の午後に出掛けてみました。

 我々の若かった頃の「ともしび」は西武新宿駅の前に大きな店を持ち、1830歳位の若者男女で何時も混雑していました。

それは昭和30年(1955年)頃から10年間くらいがピークで、昭和50年くらいまで続いていました。しかし、1970年頃からカラオケが出現すると、たちまち忘れ去られてしまいました。

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 ピアノの前で歌う客の人々

今また店こそ小さくなったものの、また大いに人気を博しています。しかしその客層はと見てみると、昔の客層とは全く違い、7080代の人々が対象であり、店の立地はJR新宿駅に近いビルの6階であり、店の収容力は65名くらいでした。2時より昼のステージが始まりますが、時間前に席は満席でした。入場料金代1,600円を払い、私は独りであったので一番前の席に座ることになりました。

店内を見回すと男性11名、とその多くが80歳近い方々です。女性はグループで来ている人が多く、55名くらいで70代と見える方々です。

開演してピアノが伴奏を弾きだすと、部屋の皆が一斉に歌いだしました。最初の歌は「青い山脈」でした。私の席には2人の男性と1人の女性で、女性は今日初めて来たと言っていました。男性はたまたま二人とも77歳でした。私のほうが2歳年配です。歌が始まるとその二人の歌声は素晴らしいものでした。声量もあり歌も上手いのです。

そこで月に幾日くらい来ていますかと聞いたところ、ほとんど店の開いている日は毎日との返事でした。しかも八王子の高尾からとのことでした。

私も知らない曲が少しありましたが、ほとんどは大声で歌ってきました。少しはストレスの発散が出来た気がします。

1時間程楽しんでから「アンパンマンの歌」で席を立ち早めに退席することにしました。

老人になって大切なものは刺激です。それに最近は感じ無くなってきているのです。何とかして刺激を追及してゆきたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-08-17 20:30 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 夕刻のNHKテレビで「山へ!to the mountains 展」が世田谷文学館で7月15日より9月18日まで行われていることを知り、その案内の中には深田久弥や田部井淳子の名があったので是非見てみようと考えました。

この夏は晴れの日ばかりで、梅雨明けになったと言っても実感が全くありません。その場所は京王線の芦花公園駅の近くだと判りましたが、私はまだ一度もこの駅には降りたことはありません。
出かけた日は暑い日でしたが、まだ昼にはかなり時間があったので、南口に下りて目的地まで住宅地を7分くらい行くと、木立の中にある文学館へと着きました。
入場料が以外に高く、65歳以上でも600円でした。

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 館内に入るとこの目的の特別展は2階で開催されていました。最初に目に入ってきたのは漫画の山の物語「週間ヤングジャンプ」に2007年から2011年に連載された新田次郎の「弧高の人」の原案を漫画化した、坂本眞一の詳細な原画でした。この漫画は文化庁メディア芸術祭漫画部門で優秀賞となったものでした。

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更に進むと明治時代の小島烏水のウエストンと交流があった登山家の山の書とその原稿がありました。次には深田久弥の我々の若い時代の原稿や、山の写真がゆったりと展示されています。他には田辺和雄(植物学者、探検家)、や田部井淳子(登山家)、石川直樹(写真家・探検家)、の原稿や書籍の展示もありました。しかし、私は山の写真がもっと沢山展示してあるものと期待していたので、少し残念な気もしました。他に、1階の展示場では他の物が展示されていましたが、全く関心が無く早々に出て来ました。

 館内には素敵なコーヒーショップがあり、軽食が提供されるのでピラフとアイスコーヒーを飲み、ゆったりと涼む時間がとれました。

この町は立派な住宅が多く、また周りには大きなマンションが沢山有り、思った以上に良い住宅地でした。


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# by minoru_mogi | 2017-07-26 11:46 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ここ暫くは日中温度が高いので、外出を控えていましたが退屈になり、やっと好奇心のある所へ行ってみようと、大森貝塚へ出向きました。

この大森貝塚は米国人のモース博士が来日して、東大の教授として明治10年に発見して、縄文時代という言葉が使用される基になったものです。モースがこの貝塚から発掘された土器を英語で「code marked pottery」(縄の跡がある焼き物)としたのを、日本の学者が縄文(紋)と訳したことによります。

因みに、弥生時代の弥生は、東大近くの弥生町から出土した焼物が作られた年代につけた名でした。兎も角、日本の古代史はここから発展したと言っても良いでしょう。


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 ここは今は「大森貝塚遺跡庭園」とされており、大森駅より10分に位置しています。公園はあまり好奇心をくすぐる物も無く普通の公園に貝塚があるばかりです。

大森駅前で食事時にグーグルでその地の地図を見ていると、すぐ近くに品川歴史館があることが判り、貝塚を先に見てから歴史館へと炎天下を更に10分ほど歩いて、立派な塀に囲まれた歴史館に着きました。入場料は100円ですが70歳以上は無料でした。

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中に入ると目の前に立派な日本庭園が広がります。私はこちらを最初に見学することにしました。芝は素晴らしく綺麗に保たれてますが、残念なことにその池には水が無く、小さな流れがあるはずでしたが干上がっていました。節水中と思えました。

また、この建物には日本家屋の書院も接続されており、庭の中には茶室まであります。その茶室の説明看板を読むと、ここには安田善助邸があり多くの財界人がこの茶室に招かれていたそうです。

 展示室に入ると江戸時代の品川宿のジオラマが目に入りました。年表を見ていると大きな甕があります。また品川の海に関するのり船や、品川本陣の模型、御殿山、品川台場、東海寺の説明等、なかなか見ごたえのあるものばかりでした。

帰路は歴史館の近くからバスで大井町駅に出て家へと帰りました。


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# by minoru_mogi | 2017-07-18 20:10 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 先日、書店で本を見ていると、「定年後の最大の問題は何か知っていますか・・・健康?、お金?、いいえ孤独です」というコピーが目に飛び込んできました。そこで早速本を手に取り、50歳からの生き方、終わり方とあるこの書を買って、夜から直ぐに読み始めました。

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 私は定年の60歳でキッパリと会社を辞め、残った時間を社会奉仕と山登りに使いたいと考えました。これには理由があり、私が28歳頃に急性腎炎で大学病院に40日間入院した折に、医師より「貴方は短命でしょう」と言われたことが大きく影響しています。

また55歳くらいより定年後のことを考えて、青少年の活動を支援する世界的なクラブであるワイズメンズクラブ(Y's Men's Club) というYMCAのOB団体に参加して、月に2回の例会と他の活動に携わりました。

 60才からは直ぐに年金を受け取り、まだ健康の確かなうちに好きな山登りに情熱をかけて甲斐駒、八ヶ岳、蓼科山、焼岳、仙丈ケ岳、や日帰りできる山も昔の会社の山仲間とか、親しい友人と2人とか、時には単独行で出かけました。

また、会社時代には無理であった海外旅行には退職2年目よりアメリカ、スイス、東欧、トルコ、シンガポール、タイ、オーストラリア、スリランカ、ベトナム等、その地の友人を訪ねて楽しい旅をしました。また、学生時代に語学で力を入れた英語とドイツ語を駆使してアメリカ、オーストラリア、スイスやオーストリアでは自由に行動が出来、家内と共に良い時間が持てました。

また、日常的には好きな園芸の知識を活かしボランティアで、家の近くのバスターミナルのロータリーの周りに花々を植え、高尾にある青少年施設のわくわくビレッジの花壇にはシーズンごとに花を植え替えて美しく保っています。

 予想外に現在の79歳まで健康な、かなり充実した人生を過ごしてきました。しかし、最近になってから少しその生活に充実感が足らない時間を時折感じるようになって来ており、もう一度人生を考え直してみようかと思っています。

 その第一は原因は体力の低下です。好きな低山歩きも登りでは息切れが激しく、下りでは膝が1時間程しか耐えられなくなってきており、今年はまだ1度しか山に出かけていません。月に1度は出身大学の図書館にゆき読書をしていましたが、これも2ヶ月に1度位になってきました。また、各種の博物館巡りもなかなか重い腰が上がらなくなりました。気力の衰えが一番の原因なのです。

 そこで、気分を一新しようと秋からの活動計画を考えています。このブログに自分の計画を書けば、確実にやらざるを得ないだろうと思うからです。この秋の第一の計画は10月に青森県の三内丸山遺跡を再度見に行くことです。

ここは定年直後、会社より記念に貰った家内と二人の国内旅行券を使い、まだ発掘されて間もない遺跡に行き、仮設の資料館や大きな栗の木の6本柱のモニュメントを見てきましたが、それらがまた私を呼んでいます。
また、平成11年3月の東北大地震の被害地の南三陸町に同年9月にボランティアで
行き、12年6月に音楽ボランティアの1員として石巻市大槌町に行きました。それらの地に是非とも行き、三陸鉄道に乗り、その復興状況を自分の目で見たいと思います。

昨今は周りの人も高齢となり、交流の回数が少なくなってきましたが、私としては残りの人生を「孤独ではない」人生を目指してゆきたいと考えています。


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# by minoru_mogi | 2017-07-13 16:26 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ここ4年間に亘って工事が進んできた両市の駅前再開発が、府中市側に於いてはほぼ完成して、この秋から15階建ての大型ビルのオープンが発表されました。一昨日府中のバスターミナルを利用したところ、そのターミナルは2倍くらいに拡大され、大変ゆったりとしたものになりました。

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                    府中駅前再開発ビル

この再開発ビルは地上15階の大型ビルで、商業テナントや140戸の共同住宅も高層階に入る予定です。これで府中市の駅前開発は全部終了となります。

 一方、国分寺市北口の駅前再開発は、高さ36階建てビルと35階建てビルの西棟と東棟に別れて2棟のビルが駅の北口に立ち上がっており、その竣工は平成30年1月末の予定です。上層階には共同住宅が多く用意され、住友不動産から売り出されます。

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       国分寺北口再開発ビル 西棟


現在、ビルは最上階まで立ち上がり、外装・内装へと移っており,
その2棟のビルの
西棟には三越伊勢丹の商業施設が14階に入る予定になっています。

しかし、府中の伊勢丹が近年に閉鎖される話しが出ていることを考えると、どの様な形態で出店されるかは不明です。しかし、この再開発に依り駅前は大きく変化するでしょう。昭和30年代に言われたように、中央線の3寺と言われた賑やかさが戻るでしょうか。

国分寺北口のバス停もすでに本来の駅より離れた広いターミナル移設されておりました。

この秋から来春にかけて両市の顔が揃い、大変な楽しみです。


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# by minoru_mogi | 2017-07-01 19:24 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昨年11月30日に御岳駅よりケーブルカーで山上駅へ行き、日の出山(903m)へ行ったのが最後で、約7ヶ月山歩きをしていません。今回低山歩きとはいえ全く足には自信がありませんでしたが、ここで山歩きを終わりとはしたくないので、兎も角行けるところまで行こうとの気持ちで、日陰の多い林道を行く影信山(727m)に出かけてみました。

6月17日の土曜日は天候は快晴であり、高尾駅のバス停には多くの登山者で、小仏行きのバスは臨時便も出る状況です。

 小仏のバス停よりはゆっくりと10:00に出発しました。その足取りは重くゆっくりとしか歩けません。出発してより20分も山道を歩くと息切れが激しく、木の切り株に腰を下ろして最初の休憩です。次は15分ほどでまた休みになりました。

とても足が重く気持ちでは頑張っているのですが、息が絶え絶えです。立ち休みを入れて20回くらい休んで、やっと小仏峠から影信山の尾根に出ました。今日の出発前の予定では、この藪沢の中ほどまで登って途中で引き返すことになるだろうと自身では考えていました。

 標高727mの影信山は高尾山より128m高いのと、バス停が280mなので447m登ることになります。それに比べると高尾山は高尾山口駅で標高が200mなので、頂上の599までは399m登ります。

 さて、頂上へはあと30m程の急傾斜を登らねばなりません。私の足ではこの30mは全く大変なのと、今日の登山者の多さを考えると、山頂は7080人位で混雑していることが考えられるので、山頂を諦めました。そして山道の脇の斜面に腰を下ろして、昼食のオニギリを食べ始めました。丁度昼には10分前でした。

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     目の前の鉄塔がある山が城山です、遠くに見える山は大山です


景色の良い尾根筋なので開けている南を見ると高尾の城山(670m)がよく見え、そのずっと先には丹沢の大山(1253m)が良く見えています。山の景色をおかずにオニギリを3個食べました。

 帰り道は今来た薮沢林道を止めて、道の確りした小仏峠への道を歩く事にして、小仏バス停に13:10分に着くと、バスが出たばかりで私の前を歩いていた人は間に合ったようで誰も居ませんでした。その山道の脇には猫の好きなマタタビの蔓が白いペンキが付いたような葉を茂らせていました。

 今日は半年振りの山歩きであったのですが、何とか登れたのでホッとして、少し自信が戻ってきました。近々にまた早めに山に出かけ、更に自信をつけたいものです。


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# by minoru_mogi | 2017-06-19 19:54 | 歩いた山 | Trackback | Comments(0)

 今年の春で中学3年の同じ組の人々が80歳を迎えています。この同窓会は70歳に近づいてから急に活発になりました。そして現在では春と秋に二度行われることになり、一度は学校の有った群馬の館林で行い、もう一度は都内で行われます。

その都内で行われる1回は主に私が1人で企画実行しており、今年の春が4回目で524日に行われました。

館林の中学校は合併が行われる前であり、町の人口は3万人くらいで中学校は1校のみでしたが、クラスの数は1学年9クラスもありました。そして1クラスは大人数で59名いました。ですから顔を覚えていても名前を思い出せる人は少なく、ニックネームを聞いて思い出す人が多くいました。

 東京での会は女性のかなり多くの人が嫁いで東京に出ており、これらの会は新宿「青葉」(台湾料理)、代々木「ガウディ・ガウディ」(スペイン料理)、横浜「スカンディア」(北欧料理)と続き今回の再度の新宿「青葉」となりました。そこで、皆80歳になる今回は、これが最後になる可能性があるので、兎に角、印象に残る同窓会にしようと色々と知恵を絞りました。

毎回、毎回食事後はそれぞれ自由行動で中華街や氷川丸の見学場所に行くのですが、皆で一緒に行く所を決めることにしました。

5月の中旬ですと花はさつきの季節です。そこで、今回の行く先は駒込の大名庭園「六義園」としました。ここは東京都の特別名勝とされており、その入場者も年間で都内公園では最高の40万人近くの人が訪れています。その説明員には私の親しい友人で、同園のボランティアガイドを長く務めた方に是非にとお願いしました。

 当日は午前10時に駒込駅の改札前に集合です。高崎からの男性が来て時間内に15名が集合しました。駅前で今日の案内者の方に園内案内と館林の関係の説明をして貰いました。

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今回、この六義園としたのには大きな意味が有ったのです。

江戸時代、館林藩12万石の藩主、徳川吉宗の小姓、柳澤吉保は出世を重ね大名になりました。彼は館林藩の勘定方の息子であったのでした。その吉保が6年をかけて作った大名庭園が六義園なのです。邸内の詳細な説明と館林藩の歴代の藩主の名も資料として作っておいてくれました。

驚いたことにはその藩主の中に山形より移封された秋元氏と共に、山形より館林に移ってきたと言っていた末裔の人が我々の中に居たということです。

園内を巡り、藤代峠の35メートルの山から、池と出島を見下ろして、1時間半もの楽しい時間となりました。

駒込より山手線に乗ると、新橋での人身事故で30分も駅で停車のハプニングです。新宿のレストランに着いたのは1時半過ぎで、それから2時間半、17人の皆で話が弾みました。

参加者は男4人女11人と女性パワーが勝りました。一応、この秋は館林で同窓会を行うということに決めました。東京の幹事はそろそろ引退です。


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# by minoru_mogi | 2017-06-07 13:13 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 ワイズメンズクラブの大阪のクラブとの交流会が名古屋で催され、52021には市内の観光をしてきました。

その中で名古屋城見学があったのですが、お城よりも本丸御殿が公開されており、お城はさておき新築の御殿を見てきました。ここ数年に亘って建築が進められていたお城の前にある御殿は、来年春に完成する予定ですが、大半の部分が出来上がっており、その400年前と同じ内部の各部屋を見て回りました。

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            本丸御殿正面とボランティアガイド

玄関正面の作りは唐様の屋根が檜皮葺の美しい曲線をなしており、そこから大廊下を通り、障壁画の連なる表書院となります。そこには復元された虎の絵が有り、これは本物は戦時中も疎開してあったもので、今も実物が存在しているものを複写したものだそうです。

この建物に使用されている木は、皆全く節の無い立派な木曽ヒノキであり、金具は細かい細工のある釘隠しが美しく、素晴らしい金具類です。

また、この名古屋城と本丸御殿は1945年(昭和20年)の大空襲で焼け落ちてしまい、戦後鉄筋コンクリートとで城のみ再建されたものでした。しかし年数を経ており、新しく作り直す話しが出ているそうです。

その時には本来の木造で作り直そうと、今の河村市長が計画しており、予定価格505億円の費用を50億円は市民からの寄付を予定しており、他は入城料で回収する計画です。目標は2020年とありました。

次に徳川美術館に行きました。そこには「武具と刀剣」の特別展であり、尾張徳川家の甲冑や徳川家が所有する名刀等24点もの品がゆったりと展示されていました。それらを見に来た人達の中に、若い2030位の女性が1人で来ている人が沢山います。若い女性が刀剣に興味を持っているとは思えなかったのですが、現実にその姿を見ると、自分の考えが遅れているのかと思はざるを得ない気持ちになりました。時代は変るものだと実感しました。


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# by minoru_mogi | 2017-05-26 14:32 | 随想 | Trackback | Comments(0)

 昨日、何時もの散歩を延ばして2時間にわたって八王子みなみ野の綺麗な公園と住宅地内を歩きました。このみなみ野は街全体が計画的に3万人が住む町として計画された街で、電柱は地下埋設であり、住宅地は最低80坪位であり100坪以上の広い住宅が沢山あります。その庭には石楠花の沢山の種類が咲くお宅や、バラの垣根に囲まれた家、各種の花が庭にあふれているなど実に見事です。

その中学校の南側を歩いていると、サクランボの種が沢山路上に落ちています。ふと見上げると直径78ミリの真っ赤な実が、鈴なりについているではありませんか。その桜並木は25本前後街路樹として続いているのです。少し行くと小学生の男の子が34人おり、1人が樹に登って実を採っていました。私は樹に登る訳にもゆかず、その男の子に声を掛けて採った実を少し分けて貰いました。



すると、
3個ほどの実を手渡してくれたのです。それを口に入れてみると思いのほか甘く、少し酸味があるものと思っていましたが、甘さは少ないものの正に甘いサクランボです。

よくぞ鳥達に全部食べられないで、これほど実をつけていたと思い、今度は鳥に注意してみると、いました、ムクドリの一団がひと気の無いところでギャーギャー集まっていました。

サクランボといえばトルコでの思い出があります。10年程前にトルコ国内を巡る旅行に参加したことが有ります。季節は丁度5月末のことでした。トルコは夏が乾季であり、麦はもう黄色になり、その脇には真っ赤なケシが咲いていました。

イスタンブールの高級ホテルで、朝食の折に果物は自由に取り放題です。トルコは果物は豊富でその時出ていたものはスイカ・イチゴ・オレンジ・スモモ・モモ・サクランボ・桑の実などです。

私は早速サクランボを取りに行きました。そして2度目もそうしました。しかし、私以外にはサクランボをとる人は誰もいません。そして、次に珍しい白い桑の実を食べてみました。大きくて甘い実でした。翌日、トルコの田舎へ行った折にはサクランボ100%果汁の缶ジュースが日本円で100円位でした。

バスで国内を回って行き、湖の畔で休憩をしました。その湖畔の並木はサクランボの樹でした。その枝には大きなサクランボがいっぱい付いています。手を伸ばして実を採って食べると、ホテルで食べたものと殆ど同じ味です。

トルコではサクランボなどは全く普通の街路樹の一つであったのでした。


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# by minoru_mogi | 2017-05-18 14:25 | 随想 | Trackback | Comments(0)

国宝松江城 No655

 私は今までにかなり沢山の城や城跡を見てきたものです。西の方からそれらを並べて見ると、佐賀城(城址・佐賀)、福山城(広島)、松江城(島根)、姫路城(兵庫)、大阪城(大阪府)、二条城(城址・京都)、和歌山城(和歌山)、大和郡山城(城跡・奈良)、彦根城(滋賀)、安土城(城址・滋賀),長浜城(滋賀)、名古屋城(名古屋)、高山城(城址・岐阜)、浜松城(静岡)、駿府城(城址・静岡)、甲府城(城址・山梨)、松本城(長野)、小田原城(神奈川)、八王子城(城址・東京)、千代田城(城址・東京)、仙台城(城址・宮城)などです。

 しかし、戦国時代からの国宝のものは、松江城、姫路城、彦根城、松本城と、まだ行ったことの無い犬山城です。あとの城はほとんど昔のものが残っておらず、戦後にコンクリートで再現されたものばかりです。

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今回の島根旅行の折に、この松江城をゆっくりと見学してきました。それは宍道湖に近く、掘割に囲まれた小高い丘の上に有ります。松江駅に午後2時に着いて駅前の観光案内所の行くと、お城へ行くのならレイクラインという市内観光地循環のバスが20分間隔で出ており、それを利用してくださいと言われました。大手町のバス停で降りて城へと向かうと、濠が囲んでいます。城内に入ると大きな樹が目に付きます。杉の木などは400年を経たものと思える高さと太さです。同じく松も大樹ばかりです。

城の小高いところへ登って行くと、城全体が見渡せるところに出ました。城全体はさほど大きくなく、松本城と同じ位の大きさです。しかし城内の展示物は豊富で、甲冑などは20体以上は並んでおり、また天主台よりの展望も素晴らしく、西側には宍道湖が広がります。

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城から出て城内を巡っていると、城内の雰囲気にはそぐわない木造二階建ての大きな西洋館が目につきました。その建物の色は薄い緑色の塗られていました。しかも神社の隣にあるのです。

これは何かと思い近くで作業をしていた人に聞くと、それは明治天皇が来る予定で立てた建物であり、日露戦争が始まったので、急遽天皇の松江巡幸は中止になってしまったのですとの説明でした。その名は興雲閣というのだそうです。いまは展示会場となっています。

残念なことに時間が足りないのでこの建物は公開されていたのですが見る時間は有りませんでした。

帰りの市営レイクラインバスに乗り、小泉八雲邸を車窓に見て宍道湖の畔に来ると、丁度夕日が西の湖の上に落ちかかり、雲が多い中でしたが水面に陽かげが見えて、有名な湖の夕日のシーンを見ることが出来ました。

町の印象は大変綺麗な町で、豊かな街路樹に彩られ、水に囲まれた静かな街でした。


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# by minoru_mogi | 2017-05-02 15:16 | 随想 | Trackback | Comments(0)

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 419日から21日に掛けて島根県出雲市の弥生遺跡の銅剣538本が一度に発掘された、山の中の遺跡を見に行きました。以前より一度訪ねてみたかった荒神谷遺跡と、そこから3kmの近くにある加茂岩倉遺跡を見たかったのです。

行く前に、荒神谷遺跡博物館に電話して調べてみたのですが、荒神谷から加茂岩倉まではたった3kmなのですが、山道や林道も確かでなく、電車で戻って他の駅より方法が無いとの返事でした。

双方共に弥生後期遺跡であり、荒神谷は銅剣、加茂岩倉は銅鐸が39個も出土したところです。このことを考えると、出雲地方は弥生後期には大きな勢力を持った文化圏があり、おそらくは朝鮮半島の文化も入っていたのかもしれません。出雲大社の神殿の柱跡も見ましたが、確かに巨大な建設物があったのは確実です。

 朝920分に無人駅の荘原駅に降り立つと、そこには幸にもタクシーが1台居りました。往きか帰りかに遺跡より歩いてみたいと思いましたが、行きをタクシーにしました。歩いて453.5キロとありますが道が判りにくいのです。

荒神谷に着くとそこは山裾で、その谷戸に遺跡はあります。先ずは遺跡を見ようとすると
案内ボランティアの建物が有りました。しかし案内人は居ないとの表示でしたが、カメラを出したり支度をしていると、そこに1人の65歳くらいの男性が現れて、ボランティアですが案内しましょうかと声を掛けてくれました。そしてまだ新米なのですと言います。是非お願いしますと返事をして、2人でゆっくりと山に向かって歩いていきます。

先ず、古代蓮の池があり、蓮の芽が水面の上に10センチくらい伸びています。これは大賀一郎博士の千葉の検見川で発見された2000年前の蓮の花であったのです。

私は高校生の頃、生物部におり、その顧問の先生が東大で大賀博士の助手をしていたことがあり、博士が館林の城沼の蓮を調査に来た折、大賀博士と先生の船、その後の続く2隻目の船に乗り沼の蓮を見て、翌日高校で博士の講義を聴いたことがあると話しました。

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暫く行くと山の30度位の斜面に銅剣の出土した場所がありました。良くぞこんな所に遺跡があったものと思い、下の田んぼの端に小さな須恵器の破片を市の調査員が拾い上げた偶然から発見に繋がったそうです。このボランティアの方とは色々と話しましたが、説明もすぎず、聞く耳を持った大変好感の持てる方でした。

 次には資料館に行き、複製品の銅剣と銅鐸の展示を見てきました。発掘された銅剣・銅矛の複製品が沢山展示されており、同時代の土器や馬具などもありました。

1時間半を見学に費し、駅まで歩いて出ることにしました。周りは丁度つつじの花が咲き出しており、静かな田園風景が続きます。

途中の荘原第一小学校の校庭の端には、30メートルの前方後円墳の古墳があり、いかにも遺跡の里にふさわしい光景でした。

駅に戻ると、駅前には食事をするところも全く無く、1時間に1本の山陰本線を待ち、50分近く駅のベンチに座って待つばかりでした。


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# by minoru_mogi | 2017-04-24 16:15 | 随想 | Trackback | Comments(0)