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イキイキオンクル 低山森林歩きと花探訪
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山歩きとそこで出会う花たちへの思い

by minoru_mogi
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六道山より箱根ヶ崎へ(都立公園その2) No266 誤サイト
 12月4日に訪ねた六道山へのハイキングの後、歩き残した西の箱根ヶ崎への7キロくらいのルートを、この19日の土曜日に歩いてみました。土曜日のバスは立川より箱根ヶ崎行きは1時間に1本しかないので、途中まで行く三ツ藤住宅行きで終点に近い「峰」まで行きそこから歩く事にしました。
後ヶ谷戸通りを進み大将山に立ち寄ると横田基地とその後方に真っ白な富士山と奥多摩の山々が見えるあまり高くは無い丘がありました。そこからは横田基地の滑走路の全貌が見えます。

   中央部に横に広がる部分が横田基地の滑走路で右手に2機が駐機しています
 
次に前回も立ち寄った里山民家の少し手前の須賀神社では、何人もの地元の年配者達が神社の正月飾りのしめ縄を撚っています。里山民家には干し柿が吊るされており、その板張りの縁側の上には竹篭に干し芋が並べられて乾燥芋を作っています。昭和20年代の少年時代を思い出しました。

                    神社でのしめ縄作りの光景

六道山展望台には正午に着き、ゆっくりと熱いスープを作り40分ほど休みました。
 午後はそこより出会いの辻を経て、高根山遊歩道を行くと高根山公園が有り、そこの展望台からは秩父山塊の伊豆が岳・武甲山・大持山・子持山・蕨山・有馬山が連なってくっきりと見えています。
一度車道を渡り墓地の脇よりお伊勢山遊歩道へと入ります。そこは殆ど手を入れてない山道で、都立公園としての開園予定区域となっています。視界の無い山道を歩き、競技場へ出ると立派なグランドがあり、少年たちがサッカーコートで球を蹴っていました。住宅地の街中を30分ほど歩いて八高線の箱根ヶ崎駅では、予定より3分ほど遅れて予定の電車には乗れず、寒い中を30分待つことになりましたが、充実の1日でした。
# by minoru_mogi | 2012-05-16 12:39 | Comments(0)
一橋大学国立キャンパス No386
 5月中旬の土曜日に国立で会合があり、その折に一橋キャンパスを見てみようと行ってみました。その日は丁度ホームカミングデイが行われていて、我々の年配のOBがかなり沢山五月晴れのキャンパスに見えていました。
立派な校門を入ると右手に兼松講堂があり、内部では大学のチアガールが10人ほど大声を発して演技をしていますが、見ているOBは30人くらいと淋しい限りです。構内の敷地は広大でさすが国立大と言うところで、赤松や色々なの大樹が聳えており、建物がその中に点在しています。
敷地の中央部分には図書館があり、稀覯書が展示されており、カールマルクスの資本論の初版が展示されていました。更に林の中には銅像やレリーフがあり、伝統を感じます。点在する校舎は各種の研究センターの表示が記されています。南側の一番奥には広いグランドがあり、400mのコースが有るものと思われます。

構内の中程に大学生協があり、その前にカフェテリアが開いていました。その中に入ると丁度昼食時間なのでOBの方々が大半で食事をしていました。昼食の種類はと見るとカレーや蕎麦等のほかに幾つかの定食があり、また一皿料理が並んでいます。食券の販売機が有るかと見渡しましたが見当たりません。テーブルは6人掛け位のものが沢山あり、4人掛けは少しでした。一部にはカウンター式の席もあり、学生さんはその席で食事を摂っていました。私は会合で弁当が出るのでそれまでの腹繋ぎにざるそばを頼みましたが、310円と市価の6割位の価格でした。
芝生の中の池では子供たちが網を持って何かを採っている様子です。芝生の周りには椅子とテーブルが置かれてあり、大きなカラフルなパラソルの賑やかな色が目に付きます。
あまりにキャンパスが広すぎて、来ているOB達が散ってしまい、賑やかさが感じられないのは残念でした。
ところで、国立駅前の桜通りを次の会場へと急ぎましたが、その大きな桜の下の道には自転車専用道路が整備されており、国立の市民がうらやましく思われました。
# by minoru_mogi | 2012-05-13 22:42 | 随想 | Comments(0)
経団連会長にお願いに行ったこと No385
 大学において私は英語部の部長を務めると共に、文化関係クラブ25部を統括する文化会の役員をしていた。3年次にその会長の役を引き受ける直前までいったが、母が病気になり、急遽下宿生活を止めて、大学には館林の家から2時間かけて通うことになり、残念であったが会長職は引き受けることは出来なかった。
卒業して間もなく、文化会のOB達をまとめて葵文化会を設立した。その目的はOB懇親と共に学生の活動支援を主目的として、OBから寄付を募りそれを資金として活動を始めた。
 先ず考えたことは、学生時代に色々な産業を知り就職の折の指針となる産業見学会を催すことにした。最初の計画はビール業界として、その頃サントリーが府中に作った最新鋭のビール工場、武蔵野工場の見学会である。国分寺のキャンパスからバス2台をチャーターして、多摩川沿いの工場にOB5名と学生60人位が行った。見学後ビールの試飲会があり、おつまみも出て学生達は大変喜んでくれた。
翌年の第2回は自動車産業ということで、日産自動車の追浜工場へ出かけた。バス1台を仕立てOB4人と学生が40名ほど参加した。その頃の追浜工場は米国への輸出車を作る主力工場で、サッチャー首相も見学にきていた。見学者のルートは工場内の上に回廊があり、そこから下を眺めるものであった。
第3回は新日本製鉄の出来たばかりの君津製鉄所を目指した。そこで、その手配のために紹介者として相応しいOBがいないかと考えた。するとその時の経団連の会長である十条製紙会長で経団連の会長である金子佐一郎氏が、当校のOBであり後に慶応を出ていたので是非この方にOB会の会長を引き受けて貰う事を推進することにした。
経団連の秘書課にお願いすると、会長は会ってくれるという返事であった。指定された日時の時間前に経団連ビルに出向くと、秘書課の方から説明があった。会長は11時に会議室から出てトイレに行きます、その行かれる間にお話下さいとの事であった。我々は3人であり、一年先輩の森木氏が会長にお話しすることにした。その頃の私達は25・6歳であった。
その時はきた。会長が部屋から出て来ると直に目的の話をした。すると「私の名前を使うことでその目的に役立ちますか」と聞かれた。この目的には大変役立ちますというと、「それでは私の名を使用して結構です」と言いトイレに入って行った。
3人は意気揚々と経団連のビルを出た。後になり経団連がどれ程重要な組織かを知ったが、学生にも同然の私達に会ってくれたことは、大変な人格者であったと後々に理解した。
しかし、この君津製鉄所の見学会はバスの費用が高いこと、遠いので時間が掛かること、OBからの寄付金では足らないことなどで実行に到らなかったことは、今でも残念に思っている。
# by minoru_mogi | 2012-05-05 23:25 | 随想 | Comments(0)
大月御前山(730m) No384
 4月30日の高曇の天候のなか、大月駅に9:20に下車して山に向かいました。20分くらいで甲府バイパスと国道の合流地点にある、厄王権現の石碑から沢沿いに山へと入って行きます。
山吹とカキドオシの花が咲き乱れています。10:10に赤い鳥居が目立つ権現4合目の石杭を見て、ここからが山道となり雑木林に中を行くと、ピンク色のイカリソウがそこかしこに有り、山頂まで続いていました。これ程イカリソウが有る山は見たことがありませんでした。杭の表示は5合目、6合目と続きますが、一休みしたいのですが岩が全く有りません。7合目でやっと腰掛ける石があり休憩です。9合目に又鳥居を過ぎました。10合目で大きな岩を穿った厄王権現のコンクリートの祠に着きました。しかしここが山頂ではありません。山頂には更に岩に沿ってロープの張られた道を横に登り11:30に着きました。

                       

              厄王権現の祠
大きな岩の山頂は見晴らしが良く、富士山、九鬼山、高川山、滝子山、と360度見えており、岩殿山が下に小さく見えています。山頂では3人の年配者グループが私より早く山頂に着いており、猿橋よりの登りで来たと言います。
食事は30分で済ませて猿橋駅に向けて下山です。山頂から10分間くらいは急降下が続きその後楽な山道になりました、神楽山の少し手前で猿橋への道標がありました。そのまま行くと神楽山頂上です。その山頂にはテレビの集合アンテナが立っていました。そのまま進むとケーブルに沿って道は下っていますが、登山靴のあとは見えなくなりました。静かな山の好きな私くらいしかこの様な道は歩かないのであろうと行くと杉林の切ったところに出ました。その辺から人の歩いた跡が見えなくなり急な山の斜面を滑りながら歩くようになりました。杉林の中は下草が無いので歩きやすく、兎に角山道を探して下へ下へと進みます。道に迷ったことはもう明白です。
山中にビニール袋が落ちていて、また木に赤い布がついています。これは道が明白でないので道の目印としてか、または林の所有者の境界かどちらかを示しています。
暫くして林を通してブルーシートが見えました。やっと道に出たとホッとしたのもつかの間で、そこは崖で6メートル近いコンクリートが切り立つており、しかも落石除けに2メートルくらいのフェンスが立っています。そこでフェンス伝いに行くとフェンスが切れたところに出ました。そこから降りようかと思いましたが、木の枝にぶり下がり降りても2メートル位は残り、60センチくらいの幅の側溝の中に落ちてしまい怪我でもしそうなので諦めました。さらにアケビの蔓や笹竹を分けて横に進むとまたフェンスの切れた所に出て、そこには嬉しいことに階段が有りました。かれこれ45分くらいは迷った山中で時間を無駄にしてしましました。

          さすがは武田甲斐の故郷 立派な幡と鯉のぼり
やっと山から脱出が出来てホッとして、舗装道路の上に出て川沿いを人家のある方向へと出ました。考えてみると神楽山の上で地図を見なかったのが原因です。でも地図では神楽山から猿橋に下りる線があり、神楽山の手前ではないのです。でも、それは縮尺でそうなっていたのです。
幸いにも1日に4本のバスが丁度すぐあり、猿橋駅入り口まで10分位で出ることが出来ました。今日ばかりはグッタリと疲れが出た山歩きとなりました。
# by minoru_mogi | 2012-05-01 13:17 | 歩いた山 | Comments(0)
私の祖母と母は商売上手 No383
 我が家の母系のルーツは新潟から群馬に来て、馬方などを相手の安酒の飲める店を開き、後に生薬(きぐすり)を商う店になった。また、父の里は代々大きな地主であった。
生薬を扱う中で徐々に薬屋としての形を整えていった。祖母の従兄に船乗りがいて日本郵船で火夫をして、欧州航路に就いていた人がいた。その人がドイツで化学染料が普及している事を祖母に話した。そこで、祖母はその新しい化学染料を北関東で最初に取り扱うことにした。そのため自分から横浜に出かけてそれを仕入れた。祖父はそれに反対であったという。
館林は北関東の桐生・足利・佐野・結城等の繊維産業都市の中心部にあり、その染料は良く売れたという。その頃世界的な大きな事件が起こった。第1次世界大戦である。それによりドイツからの染料が日本に入らなくなってしまつた。おかげで価格が急上昇した。染料に力を入れていた竹森薬局は大きく財をなした。その後も子供・孫の代になっても立派な薬局は続いている。その様な商売を見ていた母も商売で優れた商才を発揮することになった。
 母は商社に勤めていた父と結婚して、香港・広東・上海に滞在していたが、日中事変で中国から海軍の駆逐艦で日本に戻ってきた。そして横浜に住むことになり私が生まれたが、昭和20年に空襲で家は焼けてしまった。幸いなことに母と子供たちは前年に群馬へと疎開していた。その群馬の館林には戦時中に特攻隊の飛行場があったので、米兵が沢山進駐してきた。彼ら米兵を相手に街にキャバレーが出来てパンパンガールが集まってきた。
その時、母は目黒のドレメに洋裁の勉強に行き、注文の洋装店を開いた。キャバレーの女性達には持っていた支那服を譲り、彼女達の関心を引きとめドレスの注文を取った。そのころは2人のお針子さんを雇っていた。その内に米兵が減り、ドレスの注文がなくなってきたので、今度は町の商売で成功している奥様の洋服の注文を取ることになった。小学校の高学年であった私は、その洋服の出来上がりの届けるのが役となった。アイスキャンデー屋の奥さんの所へ届けに行くと、駄賃としてアイスキャンデーをいくつも貰えて嬉しかった記憶がある。
間もなく注文服の時代が終わり既製服の時代に変わってきた。すると母はその店を洋装付属品の店に変えた。大成功のはいえないまでも、私の大学時代まで続き閉店となった。これら私の系譜を振り返ると2人とも時代を見る眼があったことは確かである。
 私自身も45歳を目標に独立することを考えていた。そのためを考えて無尽にも加入してその資金集めも考えていた。考えたのはジュエリーを資産としての宝石でなく、ファッションとして安く売ることであった。宝石は完全でない裏に傷のあるものは一桁価格が安くなる。そこでこれらをリング・ネックレス・イヤリング・タイ止め等に加工して売ることである。
そこで、大学の友人で調査会社の社長と地域スーパーの常務、三峰の調査課長の4人でスリランカに出掛けて、スリランカの宝石商と共に石の原産地を見たり、研磨工場を見て調査した。友人の社長は大量の石を買い、それを日本で加工してみた。かなり有望なことは判ったが、2年ほど研究して私はその計画の推進に反対した。問題はその継続性に問題があった。スポットでは上手くゆく可能性は有ったが、継続しての仕入れは現地の人に任せるしか他は無い。彼らが日本人の趣向は判らない。残念ながらこの計画は実現しないで終わった。その頃からバブル期となり、忙しくてこれらのことは忘れ去られたのである。
# by minoru_mogi | 2012-04-22 20:15 | 随想 | Comments(0)
北区浮島ヶ原のサクラソウ No382
 15日の新聞にこの浮島ヶ原の話が出ていました。以前よりその事は知っていましたが、どんなものか分らず見に行ったこともありませんでした。しかし荒川を挟んで浦和市の荒川の河川敷である田島ヶ原にあるものは、かなり前にその花の盛りに見に行ってきました。これは葦の茂る川岸の中に全く自然の姿で咲いており、殆どが赤ばかりで白花はほんの僅かです。そしてかなり広い公園で保護されています。一方、浮間のものはこれと全く異なります。

 先ずこの地へは地図を見て地下鉄三田線の蓮根駅を降りて歩いて向かいました。ところがこれが以外に遠く40分ほど歩いてやっと荒川の土手にたどり着きました。堤防の上に登って上流へと歩いてゆくと、河川敷は両岸ともゴルフ場になっています。土手の下にはサイクリングロードがあり、自転車が軽快に走っています。
やっと浮間公園に来て土手の外に降りてゆくと都立浮間公園の大きな池の周りに出ました。池にはかきつばたが咲いており、水鳥のバンがおりました。初めて眺めた鳥です。

公園の池に沿って1周しましたがサクラソウはありません。公園管理室で聞くと公園のフェンスの外にあると教わりました。そこに行くと湿地の所に小公園くらいの土地があり、そこに一面にサクラソウが花壇のように植えつけられてありました。それらは赤の花のみならず白花のものが沢山植えられていました。そこは浮間ヶ原桜草圃場と書かれており、サクラソウの育成管理をしている所でした。

私としては田島ヶ原の方が遥かに優れた管理状況と思いましたが、ここのサクラソウは江戸時代からの由緒のあるものだそうです。
この公園の直の所に埼京線の浮間船渡という駅があることに気付いていなかったのです。帰りは30分もかからずに新宿に戻り、家に早めに戻りました。
# by minoru_mogi | 2012-04-16 18:56 | 栽培山野草 | Comments(0)
谷根千の歴史散歩  No381
 4月7日に実施した上野の谷中・根津・千駄木への歴史散歩は、思いがけず上野の桜の満開時と重なり花見の賑わいの中を歩くという結果になりました。参加者は男7女7の14名で正に中高年グループです。
先ず、日暮里駅を11:00に出発して谷中銀座へと向かいます。ここでは20分のフリータイムで買い物とお弁当を各自購入しました。私は250円のカレーの弁当にメンチカツ150円と100gのポテトサラダ100円を入れて、ボリュームのある弁当が何とタッタノ500円でした。他の人達も色々な組み合わせで500円チョッとで、箸は1円でした。地区のコミニティーセンターより歴史のある築地塀を見て幸田露伴の五重の塔跡に出ました。そこは谷中の墓地の中で大きな桜の樹が道の両側に花を咲かせており、多くの人出で道の脇の木の下はブルーシートで夜桜見物の場所取りで我々の食事適した空き地はありません。そこで仕方なく墓地の中に入り空き地で昼食です。そこよりはスカイツリーも望め墓石と桜とタワーの競演です。

次いで下町風俗資料館の吉田屋を見て大名時計博物館へと歩きました。博物館は元岡山の勝山藩(2万1千石)の下屋敷の広い敷地ですが、庭の手入れがあまり良くなく荒れていました。あまり広くない館内には30位の大名時計が展示されていますが、その機械よりも江戸時代の時間の概念の方がずっと興味を惹かれます。その時間は九の刻より始まり八・七・六・五・四までで、なぜか三・二・一の刻は無いのか不思議でなりませんでした。それがやっと説明で判明したのです。
即ち、九の数字は旧い中国ではラッキーナンバーであったそうです。そこでその九に1から6を掛けてゆくと、 9×1=⑨ 9×2=1⑧ 9×3=2⑦ 9×4=3⑥ 9×5=4⑤ 9×6=5④となり、この数字が時を現す刻となっており、1刻約2時間となります。しかも夏と冬では1刻の時間は異なるのです。夏の1刻は2時間40分ですが、冬のそれは1時間52分です。くれ六(むつ)は日暮れ時、明け六つは夜明け時です。おやつの語源は昼の八(やつ)の刻から来ているとの事です。
根津の町に出て小さなティールームで美味しいコーヒーを飲み充実した散歩を14:30に地下鉄前で解散して予定通りの時間に北野駅の戻りました。

# by minoru_mogi | 2012-04-08 16:04 | 随想 | Comments(0)
大学卒業50周年の卒業式招待 No380
 卒業した大学の50周年に大学より卒業式に招待されました。そこで、これが同期会の最後の機会と、全国の同級生に働きかけて、卒業生約500人の内103名がこの招待に応じて大学に集いました。この準備には昨年7月頃から幹事会を設立して、各クラブ・ゼミ・同好会・寮仲間等の組織を最大限利用して同期を集めました。同期会案内文の中に、今回が最後となることを謳い、今回参加しないと今後皆に会えないことを強調したことが参加者の多くなった理由と考えられます。
友人の中でも山岳部の友も今は体調が悪くやっと参加した状態で、他の人達も眼が悪くて不参加とか、奥さんの具合が悪くて出られない人もおり、大変残念な方が多かったのも事実です。
卒業式は広いホールで1400名もの卒業生と共に、学長の言葉を聞きました。我々の時代の約3倍もの卒業数で、特に女子学生が32%もいるとの話には隔日のように思われました。我々の時代には短大に女子が10数名で、他は男子短大生でした。学部の女子は10名以内であつたと記憶しています。

              学長への同期会よりの寄付金贈呈
キャンパスは新しい4階の綺麗な教室棟が3月8日に竣工しており、校門から入ると桜の並木が両側に続き、昔からある赤松の大木がところどころに点在し、一番多い樹は欅の大木です。キャンパスの南側の図書館付近は武蔵野を思わせるクヌギの林があり、その中には国分寺崖線の泉が湧いています。設備も女性向を考えて、カフェテリアのテーブルは4人掛けが標準であり、休憩室は天井の高い白を基調としたゆったりとテーブルが配置された所で、お茶を楽しんでいます。
もう一度この恵まれたキャンパスで学生生活を送りたいという思いがしてきました。しかしそれは無理なので、月に2・3度図書館に出かけて読書をしています。それは学生の頃に図書館は狭くて、椅子が空いていることが少なく十分に利用できなかったとの思いがあるからです。
恵まれた環境の中で今時の学生が我々の時代のようにハングリーな精神を持っているか、少し不安が残りました。
# by minoru_mogi | 2012-04-03 16:10 | 随想 | Comments(0)
サクラソウの配布 No379
 3月中旬に我が家のサクラソウの鉢を崩して、その苗をプラスチックのポットに水苔で根を包み、20種類程のものを70ポット以上作りました。例年ですとこの約3倍に増えた苗を5寸鉢に植えつけて、80鉢位作りますが、今年はそれらの株を近隣の花好きの奥さん達5人ほどに無料で配りました。そして私自身は1品種1鉢だけの20数鉢だけとしました。本来、今有る種類を守るためには1品種2鉢以上作っておかないと、失敗した鉢が出て翌年品種の保存が難しいのです。
その理由は今年から春の花はユキワリソウに傾注して、3寸鉢で40種類の鉢を作ることにしたのです。更にその種を蒔いて実生の苗を育てて4年後に花を咲かせる遠大な計画なのです。


 そのポットに作った苗を我が家の門の前にテーブルを出して無人配布会をやりました。その苗のポットは1個100円ですが、花芽を3個入れて5寸鉢で育てれば立派な品評会にも出せるものになります。これらの花を私が入手した時は1芽700円くらいでした。それらの種々の花の写真を展示して、栽培説明書も用意して置きました。その配布の結果は3日間で2000円を超えるものでした。



近所の奥さんに分けて3年くらいになりますが、なかなか上手に栽培出来るようになった方もおり、毎年3倍に増やしています。その方でも昨年の暑い夏でこの春は全く芽が出てこないと失敗したと言っていました。
江戸時代に改良された多くの品種があり、名前も「葵の上」「越の白雪」「貴妃の夢」「駒止」「喰裂紙」「都の春」「墨田の花火」等々、文学作品の中の人や歌舞伎から来た名も多く、大変洒落たものばかりなのです。
# by minoru_mogi | 2012-03-25 14:50 | 栽培山野草 | Comments(0)
チャリティーコンサート No378
 3月17日(土)の午後に八王子市北野市民センターホールでコンサートを開催しました。
私の属するクラブでは毎年春に「地雷廃絶のために」とのテーマで毎年チャリティーコンサートを催しています。今回の14回目は、昨年の東北地震で中止になった後を受けて再度の14回です。昨年も私が実行委員長でしたので、二年続きの役職です。
昨年8月から市の教育委員会の後援を得て、会場を優先的に使用出来ることになりました。しかしそのチェックは厳しく、一文字違うだけでタイトルの再提出を求められました。チラシ・ポスターも事前検閲でやっと総てが整い、クラブ員23名で実施です。私は当日照明係りで若い方にスポットライトを頼み、調整盤を担当しました。当日は雨であったせいか例年より高齢者が少ない様でしたが、会場はほぼ満席に近い入りの盛況でした。

 出演者の三塚ご夫妻は東京芸術大学声楽科の出身で、オペラ歌手として活躍されており、今回もオペラからの抜粋曲が中心でした。ステージではコミカルな動きもあり大変活き活きした雰囲気の楽しいステージでした。
 ご案内した老人ホームのデイケアとグループホームの20名の方が来場して、中には車椅子の方もおられるので、中央大学の応援の学生さんも手伝ってもらい対応しました。
大盛況のうちにアンコールで終了して、ホールの片付けを皆で終えてから、駅前の地下にある飲み屋で打ち上げ会となりました。出演者のご夫妻とピアノを担当してくれた秋田さんも参加して会は2時間以上も続きました。出演者の方々も最後まで一緒に楽しんで頂き、24名が各自の仕事を完成させた喜びを堪能しました。私も実行委員長の肩の荷がおりてホッとしビールの味も一入でした。
# by minoru_mogi | 2012-03-20 22:03 | 随想 | Comments(1)
残雪の丹沢と雪の景信山 No377
 この3月は天候が悪く、なかなか山歩きに好ましい日が無かったが、やっと13日に快晴となり、景信山に登ってきました。奥多摩の山々が白く光っているので、山頂付近はアイゼンが必要かとも思い6本爪を用意しました。
高尾駅では小仏まで行く1時間1本のバス停には、久しぶりの好天で沢山のハイカーが集まっており、9:12分のバスは満員ギュウギュウ詰で積み残しが出る始末。次は1時間後となるので皆あせっていました。景信には以外に少なくバスから降りた12名しか向かいませんでした。
このところあまり歩いていなかったので、息切れがして立ち休みが多く必要です。バスを降りた人の中で1番遅れて山頂へと着きました。山頂手前のぬかるみの道で、前の人が大きく転倒しました。ストックの用意無しでは全く危ない場面です。

                景信山山頂と後ろは奥多摩
山頂には雪が残っていますが、山道は踏まれており、道を外れると20センチを超えるくらいの深さがあります。用意したアイゼンは使用しないで済みました。
見通しの良い南面からは大山から丹沢山塊が一望出来、雪で白く光っています。東はと見るとスカイツリーも見えています。朝は氷点下でしたが、11:20の頂上は暖かく、コーヒーを淹れて40分もその眺望を楽しみました。

                        丹沢遠景
下山路は何時もの小仏峠へ回らずに来た登山道を1時間掛けてバス停に戻りました。
バスの時刻には40分もありのんびりと田舎道を日陰沢まで歩きました。この近くは高尾梅林で梅の木は多数有りますがまだ殆ど咲いておらず、今年の春の遅さを物語っていました。

# by minoru_mogi | 2012-03-14 22:09 | 歩いた山 | Comments(0)
久しぶりの映画 「戦火の馬」 No376
 数年ぶりに映画館へと出掛けました。この前に見たのは新田次郎の「点の記」でしたので、3年ぶりでしょうか。先ず、スピルスバーグ監督であることが決め手になりました。私は今良く映画を見ますが家庭でDVDを見ています。先日も「アパートの鍵貸します」を見て、ジャック・レモンのコミカルな演技を素晴らしいと思い、白黒映画の良さを再確認したところです。
 この映画ではその背景の第一次世界大戦の背景に大変興味を惹かれました。映画館はシネマコンプレックスの中の最も広い劇場で、その音響効果が素晴らしホールでした。
主役である素晴らしいサラブレッドの馬が、英国で徴用されてオランダの戦場で、その過酷な使用に耐えて兵士に従う姿には涙が止まらなくなりました。塹壕の中で、砲弾が近くに炸裂する音が席の後ろから響き、至近弾が塹壕の中にいる兵隊に迫る様子は、自分もその塹壕の中に居るようで首をすくめたくなります。
突撃の合図で塹壕を出て鉄条網の戦場を走る兵士達、その中に逃げ帰る兵士を銃殺にする命令を受けた若い兵士が、逃げてきた兵を撃とうとする苦悩が見ものです。ドイツ兵の中にも軍馬を扱う兄弟の兵が脱走して捕らえられて銃殺にされる時の乾いた銃声が実際に有った事実に思えます。
 その背景の第一次大戦がどの様なものであったかが、騎兵隊の剣を抜いての突撃にも見られ、初期の戦車が戦場に出現した様子も分かりました。映画の時代考証は完璧でドキュメンタリーを見ている気分になってきました。
鉄条網で傷ついた馬を英・独の2人の兵士が助ける場面は息をのんで見入ったものでした。フィクションと分かっていながら感動の場面です。久しぶりで良い映画をみたとの思いを体で感じて劇場を後にしました。
# by minoru_mogi | 2012-03-09 15:43 | 随想 | Comments(0)
その名どおりの雪割草の開花 No375
2月29日の雪は我が家の近くでは20センチを超える深さになりました。数年前に新潟県の西山町へ雪割草の原生地へ見学に行ったた折も、3月中旬の雪が少し残っており、雪空からは少し雪が舞っていました。
我が家でもこの花を鉢植えにして20鉢以上も雪の当たらない日当たりの良い場所でビニールカバーの中で育てています。それらの花が咲き始めており、ピンクの大輪や深い紅色、濃いブルー、白色の中に紅に雄しべの物等で変化に富んでいます。




















 













これから幾つもの鉢であたらしい花色のものが次々に咲いて来るのを心待ちにしています。この花の咲く1週間ほど前から庭に地植えの福寿草が5~6花咲き、庭を明るくしてくれます。この花の色は春そのものを現した色で、なんとも表現出来ない色に思えます。
ボケの花芽も大きくなり、シュンランの花芽は胞に包まれて5個の花が見えます。シラーの花も土の上に春芽を出してきています。
いよいよ今月は庭一杯に春が急ぎ足で訪れそうです。
# by minoru_mogi | 2012-03-03 11:54 | 栽培山野草 | Comments(0)
就職50年目のOB・OG会 No374
 新宿の百貨店に昭和37年(1962)年に就職して今年で丁度50年になりました。私はその大学卒の一期生として入社しましたが、同時に多くの高校卒業の人達も入社しました。その大半は女性であり、男性は3割ほどであったと思います。たまたま、家内もその1人で、その頃の人達と年賀状などを交換しており、是非皆で会いたいと常々言っていました。
そこで、これは私が音頭を取ってその頃の入社の方々とのOB・OGの集いを催そうと秋より計画に取り掛かりました。
場所についてはやはり働いていた新宿が良いと考えていたところ、たまたま会社の友人が紹介してくれたコマ劇場の近くの台湾料理の店を見たところ、丁度20人位の良い部屋があるのでそこに決めて計画を練りました。時期は3月か4月も考えましたが、その頃は皆さんの行事が多く、出席できる人が減ることを考えて、敢えて行事の少ないであろう1月25日と決定しました。
 開店より10年くらいまでの紳士服課で働いた社員・販売員・取引先の担当者の方で、今も住所が判明している方々に往復はがきの案内状を出しました。すると、奈良県に移り住んだご夫妻や、長野県に定住した人達から電話があり、是非夫妻で出たいとの返事があり、電話が沢山掛かって来ました。
多くて15人位かと思っていたところが、何と29名もの参加の連絡がありました。しかし、会費は当日集めることにしてありますので、風邪や雨でも降って寒い日にでもなると急遽の欠席者が出てこることも考えられて幹事としては気が休まりません。思っていた20名の会場では手狭の感じですが、狭くてもテーブルを近づけて話しやすい会場にしました。
当日は天候も良く29人全員が集合しました。レストランの空いてくる1時から会を始め、中程で1人1分の近況報告を各人にしてもらいましたが、やはり積もる話が多く、時間は有って無きが如くでした。会の終わりはレストランの好意で4時40分までと3時間40分にも及びましたが、お互いの話は尽きません。本当に40年振りに会った方も多く、その体の変わった人達が居るのにはには驚きでした。そして、次は2年後に同所で同じ頃に会を開くことを決定してお開きとなりました。しかし、それでもまだ話をしたい人が多く、今度は喫茶店で1時間も更に話しが続いたそうです。
 後日、皆さんからお礼の電話が沢山入り、手紙も沢山頂き、いかにお互いの話に飢えていたのかが分かり、この会を計画したことで皆さんが喜んでくれたことを大変嬉しく思いました。
# by minoru_mogi | 2012-02-23 11:48 | 随想 | Comments(0)
学生時代下宿の思い出 No373
 私は学生時代に4回下宿を替えています。最初の青山からは、学校に近い国分寺に移りましたが、そのお宅は鶏をたくさん飼っており、食事が殆ど卵料理ばかりで2ヶ月位で替わりました。次に移った先は大学の正門前に近い青雲寮というところで、部屋数10数室の平屋の6畳の部屋でした。当時では6畳は学生の部屋としては広い方で、普通は4.5畳が標準でした。

 この下宿のオーナーは神田で古本屋を開いていたご夫妻でしたが、ご主人が軽い脳梗塞で歩行に困難があり、そこで国分寺へと移り下宿をやったそうです。ご主人は毎日リハビリで歩行練習を廊下でしていたものです。このおばさんが私に言ったことがあります。「茂木さん、大学では遊学すると言うのです」と言います。多分、部屋で本をよく読んでいた私に、学生時代は幅広く色々なことを体験して吸収することが大切であると言ったのだと思います。
私の部屋は一番奥であり静かな勉強向きの部屋でした。ところが、この下宿ではマージャンはご法度でしたが、何時の間にかそれを破って部屋でやる人が出てきたのです。
すると、下宿のおばさんが決然と下宿の廃止を宣言したのです。それには下宿人の中で、留年や卒業できないような学生を出さないようにとの親心からと思われました。
しかし、この宣言により私もこの下宿を出なければならなくなりました。急なこと故に直に次の部屋が見つからず、友人で東京に家のある人に一時一緒に住まわせてもらうことにしたのです。下宿のその後は学生を入れないで、社会人のみを受け入れることになり再開されました。
暫くして、下宿のおばさんから連絡がありました。私に元の下宿の部屋に帰っていらっしゃいとのことで、喜んで前の部屋に戻りました。しかし、他の人は誰も帰して貰えませんでした。
その後、先輩の学生会の議長をしていた先輩が、私に「隣の部屋が空いたのでお前はそこに移って来い」と言われ、それに従い吉祥寺の下宿に再度移りました。この方が実に勉強家で毎晩夜1時半くらいまで勉強しますが、朝は7時頃には必ず起きているのです。私も真似をしましたがとてもかないませんでした。この方の生活態度を少しでも真似たことで、今日の私が有るのも事実です。良い先輩に恵まれた事を今も思い出しています。

# by minoru_mogi | 2012-02-17 21:33 | 随想 | Comments(0)
東武鉄道の経営者 根津嘉一郎旧宅 No372
 山梨市での会合があり、予定より早めに終了したので、機会があれば訪ねてみたいと思っていた根津記念館を訪ねてみました。根津嘉一郎の名は青山の根津美術館として有名であり、近年改修された同館は素晴らしいものです。氏は山梨県の今の山梨市出身で、万延元年1860年生まれで1940年歿しています。若い時に村長となり県議を経験してから東京に出て経済界で活躍しています。
 この山梨の旧宅は土塀に囲まれて長屋門を有する広大な敷地(6700m²)であり、往時は山梨県で2番目の大地主であつたと説明がありました。今では市の管理している有形文化財です。

駅前の道の駅で無料の貸自転車を借りて、笛吹川の土手より桃の果樹の畑の中を行き、回り道をしましたが30分ほどで行き着きました。畑中には清らかな水が勢良く流れており、水車があり氷が張り付いていました。辺りからは南に御坂山塊の上に富士山が顔を出し、北には乾徳山や黒金山が雪で光っています。
記念館には10名ほどの人達が館内を見ていました。長屋門は16間と大きくて立派です。母屋は沢山の部屋がある2階建てであり、それに続く茶室のある青山荘、母屋内接する土蔵があり、外へ出ると八蔵という土蔵が連なり、そこが展示室となっていました。そこには生い立ちの資料が展示されており、その歴史が判りました。

広い庭には流水と池がある伸びのびとした日本庭園があり、そこには20羽に近いマガモが住み着いており、夏でも北に帰らないのだそうです。しかし昨日一羽が鷹に襲われてしまったと管理人の方が話してくれました。長屋門の端に平等(ひらしな)という飲食の出来る土産品を売る店もあり、特産品を土産に買いました。
 帰りの道は笛吹川の堤防の上のサイクリング道路を行くことにしましたが、見晴らしは素晴らしいのですが、登り勾配と北風に悩まされ、万力公園には寄らずに駅へと帰り着きました。
今回の機会を逃すとここを訪れるチャンスは無いものと思い、行って良かったと思いましたが、帰りは遅くなり帰宅は7時前ともなってしまいました。
# by minoru_mogi | 2012-02-08 10:21 | 随想 | Comments(2)
商売における情報と分析 No371
 支店1号店の町田店は、昭和51年(1976)に私は部長代理として担当したことが、私にとって実に幸いなことでした。店全体で新しい発想を取り入れて大いに売り上げを伸ばしたものです。記憶に残るチャレンジのひとつに学生服の売り上げの大幅アップがあります。学生服は利益率が高く、値下げをする必要がない優良な商材なのです。

最初、町田店では周囲の高校が沢山あるのに学生服のその売り上げは年間500万円位しか売れないのです。どうしてか調べてみると私達の店は各高校の指定店に入っていなかったのです。町田には地元の小さな百貨店があり、よく調べてみると全店売り上げが65億円ほどですが、学生服の売り上げでは5億円以上も売っていました。
更に色々な手段で調査すると、その店では各校の学生服購買の担当の先生達を頻繁に新宿のレストランで接待しており、年間500万円も使用していました。私達の店ではその様な方法は取れませんので、正攻法で行くしかありません。
 商圏の町田市と相模原市の年齢別人口構成を足してグラフを作ってみると、高校生の人口が更に伸びることが判りました。さらに両地区では高校の増設の計画が有る事も知りました。そこで、課内のお話上手な小林君を学生服専属として各高校を訪問させる事にしました。
先ず相模原市の南部8校の指定を獲得する事が出来ました。それと同時に有力な岡山の学生服メーカーの取り込みを図りました。競争先の取引先の1番は岡山児島の日本一の学生服メーカー尾崎商事です。第2番手をこちらの陣営に取り込む作戦を立てました。
そこで岡山のテイコクに学生服担当の小林君と一緒に出掛けて同社の専務とお会いしました。私は来年には2000万円、2年目は4000万円、3年目は7000万円、5年目に一億円を売り上げて見せますと詳細な計画を話しました。当時その会社の年商額は100億近くでした。
暫く考えてから専務が「やりましょう」と答えてくれました。その決心は今有る他店での売り上げを減らしても将来性がある当社に肩入れしてくれたのです。売り上げ目標の一億円は一年遅れて6年目に達成しました。これにより町田店特有の背景を活かした売り上げ増になりました。
地元の吉川百貨店は間もなく閉鎖されましたが、伝統のある学生服部門だけは別会社として独立して今も健在です。
# by minoru_mogi | 2012-02-03 21:39 | 随想 | Comments(0)
スリランカから友人の宝石商 No370
 14年振りにスリランカから友人である貿易・宝石商が東京にやってきました。毎年来日予定と電話が来ましたが、結局いつも見えませんでした。良く聞くと心臓病が悪化して決断がつかなかったと言います。更に聞くと入院して心臓にステントを入れたとのことでした。
彼の東京に来ない間に、娘さん2人が「日本・スリランカ国交回復50周年」の祝賀行事として、国立舞踏団の一員として数年前に東京で公演したことがあり、私はその公演を見に行ったことが有ります。(ブログNo89  )
 彼の宝石の商売は御徒町や甲府の宝石の卸に石をまとめて売ることです。今回もそれが主たる目的でした。彼は他にもレインボウ・トラベルツアーズという会社を持ち、観光業も行い更に高原に25室のホテルも所有しています。加えてロハナ・オートビラとうい日本から中古自動車を輸入する仕事もしています。
今回、山形県の天童市の総持寺の系統のお寺も訪ねたそうです。その寺を中心に30名程のお坊さんがスリランカを訪問して彼が案内して回ったそうです。天童は今年の大雪で、1メートル以上の雪が有ったのにはビックリして、雪で歩けなかったと言っていました。

 彼の仕事の予定の無い日に東京郊外の私の友人宅に、その宝石を見たいという奥様方3人と共にカットした宝石を見せてもらいました。
スリランカで産出するサファイヤ・ルビー・トパーズ・ガーネット・トルマリン・アクアマリン・キャッツアイ・スターサファイア・スタールビー、その他ビルマの産出でパキスタン経由にて入るエメラルドなどです。

それら多数の宝石は私達男性が見ても実に美しいと感じるものでした。奥様達はいろいろと手にとって、指輪のイメージを描いている様子でしたが、かなりお安い価格で購入出来た様子でした。私は次の会合があるので早めに退席して、この2年以内に家内とスリランカに行く約束をして彼と別れて帰りました。
# by minoru_mogi | 2012-01-29 15:57 | 随想 | Comments(0)
AED・救命講習会 No369
 我が町会(1500世帯)での防災隊員である私の役目は、地震に際しての救助活動であり、震度5強以上の場合が出動となっています。そのような訳で昨年3月の当地の震度は5弱であったので出番はありませんでした。今回例年のように市消防隊による救命講習会があり、30数名の受講のお手伝いをしました。私は以前より東京消防庁の救命技能認定証を所持しており、緊急の際には救命措置をすることになっています。
 数年前の秋にその役目を果たすべき時がついに来たと思わせる事が起こりました。

横浜線の電車で町田へ向かっていた時であり、車内は一部の人が立つくらいの状態の車中の光景でした。
私の席は車内の一番前におりました。その時、「ドスン」という大きな音が車内に響きました。私はその音が大型の旅行カバンが倒れたととっさに思いました。ゆっくりとその音の方向を見ると車両の一番後方に若い女性が倒れて横たわっているのです。
電車は丁度駅に差し掛かり停車するところです。停車すると扉の近くの人が発車しないように扉を抑えています。周りの人達は何か言っているが、ただ囲んで見ているだけで誰も何もしません。
そこで私はツカツカとそこに行き、近くで眺めている男性達に「貴方は足を持ちなさい」と命令して、3人の男性と体を持ち上げて車外へと運び出しました。隣の車両からもこちらへただ眺めに来ている男性もいます。
4人でその女性を運び出しましたがベンチが近くに無いので、コンクリートの上に直に寝かせました。車掌もまだそこに来ていないので、私がその橋上駅の階段を2段ずつ駆け上がり駅事務所に行き救急車を手配するように言いました。そして急いで戻りその女性の所に行くと、同じ車両に乗っていた若い女性(25位)が傍で体を低くして倒れている女性を介助しています。
彼女はもちろん意識がありません。私も一緒に心臓マッサージが必要な状況か見ていると、薄目を開けて意識が戻ったようです。多分これはテンカンの発作であると判断しました。
救急隊員はまだ来ていませんが、駅員が2人来ているので私は後を託して友人と待ち合わせの時間が気になり停車していた電車にまた乗り込みました。
おそらく5分から7分位の出来事だったと思われますが、私の救急処置をしないで済んだのは幸いであったと思います。しかし、必ず何時かそれが役立つ日が来ると考えています。
# by minoru_mogi | 2012-01-26 15:04 | 随想 | Comments(0)
圏央道南高尾インター工事の進捗 No368
 1月の13日に冬の南高尾の山を草戸山まで歩いてきました。静かな山道をゆくとキツツキの木を叩く音だけが聞こえて、足下のクヌギの枯れ葉がカサコソと音をたて心地よい思いです。
この冬の不思議なことに、毎日の犬との散歩の折に例年良く目にする冬鳥のツグミに全く会いません。同じようにカワラヒワも見かけていないのです。先日、NHKのラジオの深夜便で湖北地方の自然観察員をしている方が、今年の小型冬鳥の到来が少ないようであると言い、そういう年も有るのですとも言っていました。
 1時間半のアップダウンの山道を歩き、山頂近くのベンチで昼食としました。最近は山を楽しむことにしており、美味しくて暖かなスープを入れ、冷たいおにぎりを食べました。そして新しいコップでコーヒーを楽しみました。それでも30分後には下りの沢筋へと入り、暗い杉林の下を行きます。間もなくうかい竹亭の前を過ぎたところで大きくて高い鉄枠で囲んだ施設が見えました。警備員がいたので何の工事か聞いたところ、彼は城山トンネルの工事ですとの答えでした。なるほどその囲いの中から大型のダンプカーが出てきました。





圏央道の工事が南高尾を過ぎて相模原のほうへとトンネルで抜ける工事です。グーグルの地図でその道の予定地区を見ていたので直ぐに判りました。少し先には南高尾のインターチェンジの工事中であり、すでに9割は進んでいるという印象で、ループ状の取り付け道路も出来上がっており、外周の整備工事をしていました。昨年の9月に見た時よりはるかに工事が進んでいるのには驚きでした。ここよりは高尾街道に抜けるトンネルがすでに開通しており供用されていました。
 最近のトンネル工事の技術的進歩は素晴らしく、前にトルコのイスタンブールのダータネルス海峡では、日本の大成建設が海底トンネルの工事をしており、間もなく開通になるものと思われます。日本の新幹線などで使用されている技術が世界に通用しているのを見るのは心地よいものです。
暖かな日のゆとり溢れる山あるきで、高い山ではないものの楽しめた一日でした。

# by minoru_mogi | 2012-01-18 15:01 | 随想 | Comments(0)
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